目覚めた義夫は一軒の古びた家の前に倒れていた。
 屋根の下に聖本堂と書かれた看板がついている事から本屋(正確に言えば古本屋)ではないかと義夫は考えた。

「これは一体・・・私は公園にいたはずじゃ・・・?」

そう言いながら義夫は建物の方に歩き出した。
特にこれといった意味は無いし、不可思議な現象にあった直後なのになぜか中に入ろうと思った。
・・・というより自然に足がそっちの方に進んで行ったのだ。

「ごめん下さい」

 義夫は入り口の扉を開けると同時に奥に向かってそう言った。
すると、その声を待っていたかのように暗かった部屋が柔らかい光で満たされた。

「ようこそいらっしゃいました。お待ちしておりましたよ秋本様」

 部屋の中には膨大な量の棚と、それにきれいに並べられた本が奥の奥まで延々と続いており、その本の先から低音ではあるものの、非常に優しい声が聞こえ、少し経ってから一人の老人が義夫の方に歩いて来た。
老人は腰まで伸びた白髪を背中で一つにまとめており、キッチリとした黒服を着ていた。
顔を見てみると上唇の上には髪と同じ色のひげが蓄えられており、口元には微笑が浮かんでいる。

「あ・・・あの・・・どうして私の名前を? ・・・と言うよりここはどこなんですか?」

 義夫は老人に自分の名前を呼ばれた事に疑問を抱き、それと同時に自分の置かれている状況にも疑問を抱き始めた。
しかし老人はそんな義夫の様子を見ても落ち着きを変えること無く、肩に手を添えて部屋の中に招き入れた。
義夫は一瞬入って良いものだろうかと悩んだが、どこかも分からないここで逃げ出してもどうする事も出来ないし、なにより老人が悪人にはとても思えなかったのでその招きに体をゆだねる事にした。
 老人は義夫を部屋に招き入れ終わってから静かに扉を閉め、右手で義夫を部屋の奥に促した。
部屋の中はさきほどまでの夜の肌寒さとは一変して、春のような暖かさに満たされており、周りにある本の匂いなのかもしれないが、どこからか花の香りがするような感じもする。
 義夫がズンズンと奥に進んでいくと、そこには小さいではあるがきれいに磨かれた西洋風のアンティークな机が一つと、椅子が二脚置かれていた。
そして老人は義夫が着くよりも少し早く椅子の後ろに立ち、ソッと椅子を引いて義夫が気がね無く座れるような準備を整えた。

「さて・・・さっきの質問はなんでしたかね?」
「あ、はい。え・・・えっと・・・」
「ええ、ええ。いきなりこんな所に来れば動揺して当然です」

 そう老人が言って、義夫がゆっくり一呼吸した所で一人の女性が紅茶の入ったカップを二人の前に置いた。
女性は老人と同じ位の長さの黒髪で、その髪は照明の光を受けてサヤサヤと輝いている。
服装は部屋の中の雰囲気を損なう事が無い濃い茶系のもので、長身の体に合わせて足首くらいまで覆うスカートをはいていた。

「ああ、ありがとう。さあさ、どうぞお飲みになって下さい」
「あ・・・はい」

 紅茶はペットボトルに入っているような砂糖満載な味ではなく、少なくとも義夫が今まで飲んだ中では一番美味しいものだった。
そして、それを飲んでいるうちに義夫はゆっくりと落ち着きを取り戻してきた。

「・・・落ち着きましたか?」
「はい。どうも」

義夫がカップを置いて女性の方に向かって頭を下げると、彼女もスッと頭を下げて机の更に奥に入っていった。
足元が柔らかい絨毯であるのも関係しているのだろうが、彼女が歩く時には足音が一つもせず、その動きはまるで羽が風に舞っているごとく優雅なものだった。

「さて・・・質問はもうできますか?」
「はい。ええと・・・とりあえずあなたのお名前を教えて頂けますか?」
「名前・・・ああ、確かにまだ言っていませんでしたね。いやいや、ここに住んでいるとどうもそんな癖が抜けてしまいまして・・・。私はこの聖本堂の店主のハイン。さっきのは唯一の店員のサリファさんです」

 義夫の中では次の質問は決まっていたのだが、ハインの「いやいや、ここに住んでいるとどうもそんな癖が抜けてしまいまして・・・」という言葉のおかげで、よりスムーズに口に出す事が出来た。

「じゃあハインさん。ここは一体どこなんですか?」
「ここは見ての通りの古い本屋・・・なんて言っても納得しないでしょうね。何と言ったら上手く伝わるのでしょう・・・。
・・・そうですね、どんな人でも皆が同じ気持ちになれる場所とでも言いましょうか」
「はぁ・・・」
「いえいえ、分からなくて当然です。ここはそんな抽象的な場所なのですから」
「はぁ・・・」

 「はぁ・・・」、疑問文がふんだんに織り込まれたこのセリフだが、義夫はそれ以外にどう言って良いか考え付かなかった。

「では一つお聞きしましょう。貴方はここをどう思いますか?」
「どうと言われましても・・・そうですねえ・・・。何かこう・・・とても落ち着くような、癒されるような・・・」
「その通りです。ここに来られた方全員がそう仰って下さいます」
「・・・という事は同じ気持ちと言うのがこの気持ちなんですか?」
「その通りです。もっと正確に言いますと今この部屋の中は春のような暖かさに満たされていますよね?」
「ええ」
「それは貴方がこの空間を望んでいるからなんですよ」
「はぁ・・・」

 本日三回目の「はぁ・・・」が義夫の口からこぼれた。
しかしさっきと同じでその言葉しか出てこなかったのである。

「要するにこの部屋の中の空間は、訪れた方が一番幸せに思う通りに形作られるんです」
「では私は今本に囲まれて生活したいという事ですか?」
「いえいえ、本は元々ここにあるものです。ですが、この本も貴方のためになる重要なアイテムなんですよ?」
「・・・と言いますと?」
「我が聖本堂では本の売買は行っておりません。その代わりにお帰りの際にこの中の一冊を貴方に差し上げます」
「差し上げるって・・・それじゃ商売にならないんじゃ・・・」

義夫の妙に現実じみたセリフを右手で遮りながらハインは話を続けた。

「ここは別にお金儲けをしている場所ではございません。私の目的はその本が貴方の心の手助けになれば・・・ただそれだけでございます」
「はぁ・・・」
「まあ、よく分からない事もあると思いますが・・・と言うより分からない事だらけですね。しかし、それで良いんです。次第に私が言った意味が分かっていくと思いますから」

そう言ってハインは席を立ちあがろうとした。

「あ、あの。私はどうすれば?」
「ご自由にここにある本をお読みになって下さい。私はこの奥にいますのでご用があれば声をかけて下さい。一人の方が自分の心の声を素直に聞く事が出来ますからね」
「しかし私は早く帰らないと。会社から帰る途中でここに来たものですから」
「その点は大丈夫です。ここは貴方の元いた世界の時間とは別に流れていますから。いくらゆっくりなさっても全く問題ございません」
「そう・・・なんですか?」
「はい。ではごゆっくり・・・」

そう言ってハインはサリファが向かった場所と同じ部屋の奥に歩いていった。
 義夫はというと、しばらく椅子に座って色々と考えていたが、思いきってハインの言った通りにする事にした。
もちろん、まだまだ疑問や心配な点はあるのだが、きっと大丈夫なんだろうという気持ちになったのだ。
それから義夫は自分の思うままに本を探し、読んでいった。
いくら読んでも不思議と疲れる事は無く、それどころか眠気や空腹さえも感じなかった。



・・・そうやって本を読み続けて一体どれくらいの時間が経っただろうか。
読んだ本は一冊一冊きれいに元の場所に戻しているので本の数から推測する事も出来ない。
そして義夫はまた新しい本に手を伸ばそうとしていた。

・・・が、突然義夫の眼に一冊の本の背表紙が飛び込んで来た。
その本は他の照明のおかげで光っているものとは違い、自らホワホワとした光の泡を作り出している。

「何だ・・・これは? 目の錯覚か?」

 義夫がふとそう呟いてその本を手に取った瞬間、背中の真後ろにハインが立っていた。

「ついに見つけられましたね。貴方の本を」
「貴方の本?」
「ええ。貴方の本です。ところで今自分の世界に何冊の書物があるかご存知ですか?」
「いえ・・・知りません」
「良いんです、良いんです。そんな事知らなくて当然です。ですが膨大な量であるという事はお分かりですよね?」
「はい」
「貴方の本というのはいわば貴方にとっての運命の本。ほら、よく男女が赤い糸で結ばれているとか言うでしょう?」
「はい」
「それと同じ・・・とは言えませんが人間一人一人と、世の中にある本は一対になって繋がっているんですよ。ですが、ほとんどの人はそんな事も知らずに人生を終えてしまう・・・。だから私はここでこうやって、一人でも多くの人が自分の本と出会えるように手助けしているんですよ」
「はぁ・・・じゃあこれが私にとっての運命の本なんですか?」
「ええ。現に貴方も感じたでしょう」

 これが運命の本だ、なんて事はもちろん考えていなかったが、他の本と大きく違って見えたのは義夫にとって紛れも無い事実だった。

「ん・・・まあそうですが。・・・ところでその目的が果たされた今、私はどうすれば良いんですか?」
「別にどうしなければいけないという事はありません。まだここに居たければ居てもらっても構いませんし、元の世界が心配ならば戻られても構いません。ただ、運命の本と出会えたからと言って、それで目的が完璧に果たされたわけじゃないんですよ」
「と言いますと?」
「確かに貴方にとって運命の本と出会えた事は大きな事です。しかしそれが貴方の助けになるかどうかは別問題なんですよ」

 義夫の顔にはその言葉を聞いて、再び「?」が浮き上がった。

「まあ、そう悩む事はありません。その本とどう付き合えば良いのかはおのずと分かってくるものですから、私も出来る限りお手伝い致しますしね」
「はぁ・・・そうなんですか・・・」

 ここに来て義夫の頭に自分の悩みとは何なのだろうという疑問が生まれた。
そしてそれは一瞬のうちに義夫の顔に影を落として消え去った。

「・・・どうも元の世界が気になるようですね」
「え、ええ、まあ・・・」
「良いんですよ、それで。ここでは自分が感じるようにして頂いて結構なんですから。では、とりあえずこれをお渡ししておきますね」

 そう言ってハインは義夫に一つの鍵を手渡した。
鍵はきらびやかな装飾などは施されていないが、磨き上げられて光沢のある銀色をしており、ここに来て初めてのヒヤッとした触り心地がとても新鮮だった。

「これは・・・?」
「これは元の世界とここをつなぐ扉の鍵です。と言っても特別な扉があるわけではなくて、ここに来たいと思った時に、その鍵でどれでも良いのでドアを開けたら自然とここに繋がります」
「分かりました」
「では、その本が貴方の心の助けとなりますように・・・」

そうハインが言った瞬間、義夫の視界は白い霧のようなものに包まれていった。




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