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寺子屋に帰ってくると中岡が部屋にいた。
部屋を見渡すと辺り一面に仏典が転がっていた。どうやら一日中部屋に籠もって仏典を複写していたようだ。
「おう。遅かったな。」
日が暮れてようやく戻ってきた事も気にも止めていない様子だ。
それよりも今写している巻物はなにやら貴重な仏典なのかひたすら下を向いて写経に勤しんでいる。
どかっと座り込むと大きく息を吸い込んで吐き出すと共に返事を返した。
「あぁ・・・。」
自分でも気付いていないみたいなのだが、今日起きた出来事が案外体に来ているらしく、フラフラとしている。
肩が重い。倦怠感が感じられる。途轍もない睡魔に襲われつつある。
流行風邪なのかも知れないが、今はそんな悠長な事を言っていられる事態ではない。
ゴロリと横になると畳のひんやりとした冷たさと独特のざらつきが顔に伝わってくる。
時代と共に風化しているが微かに畳の香りも漂ってくる。
なんだか心が落ち着く感じになった。そしてうつらうつらとしてきた頃・・・・・・
「ところでいつもの場所に行ってきたのか?」
中岡は突如として話しかけてきた。意識が朦朧(もうろう)としていた時に声を掛けられてハッと我に帰った。
(そういえばもうそんな時期なのか。)モヤモヤとした頭の中でなんとか考えられたのはこれ唯一だった。



いつの間にか夢の中に紛れ込んでいた。
周りを見渡すと一面白い霧に覆われている。視界はほぼ零と言っても過言ではない。
だが、自分の足は何かに導かれるようにその濃霧の中を前に歩き出していた。止まろうと思っても止まらない、寧ろ止まりたくない気持ちが働いた。
黙々と歩き続けた後に見えたのは一軒の朽ち果てた廃屋だった。
外見は今にも崩れ落ちそうなのだが、柱が強固なのか風が吹いてもビクとも動かない。
風で動くと言えば屋根瓦の代わりに乗せてある藁と、足下の草くらい。
壁は廃材を集めて自分で釘を打ち付けているのか、形が異なっている。その為、穴が空いているところにはまた廃材で繕っている。
扉というものはなく、簡単な筵(むしろ)が掛かっているだけの簡素な作り。
これだけの判断材料では余りにも不気味である。普通の人なら躊躇する所を躊躇いなく筵の入り口を潜った。
中に入ると意外にも快適な雰囲気を醸し出していた。
部屋の中央には囲炉裏があり、その上には煙が上へ昇るのを利用して魚を薫製にしている。
その囲炉裏の側にはこれまた筵が敷かれており、火の暖かさに触れながら雑魚寝をすることも可能。
壁には酒の入った徳利(とっくり)が幾重にも重なって掛かっており、その隣には長い釘にお猪口(ちょこ)を引っかけてある。
この光景を見ても滑稽には思えない。それよりも心の底に懐かしき故郷の念が沸き上がってきた。
人の気配もしないので外に出てみると一人の老人が立っていた。この家の主だろうか。
目深に帽子を被り、片手には長い杖を持っている。
誰だろう。何処かで見た覚えがあるような。一生懸命記憶の糸を手繰り寄せようと努力しているがなかなか出てこない。
   “お前、また怠けたな”
後ろにも同じ老人の姿が。よくよく見渡すと同じ姿の老人が群がってきている。
それも同じ言葉を発しながら。まるで操り人形のように。
正に恐怖である。頭が狂ってしまいそうだ―――。



そこで夢は途切れた。
気が付くと上様と中岡が脇に座っていた。
体中からは冷や汗が止めどなく流れ出ていたのか濡れた布団と着物が体にまとわりついて実に気持ち悪い。
「坂本。体の具合はどうだ?」
事の経緯を伺うと三日三晩高熱に魘(うな)されていたらしく、ずっと寝込んでいたらしい。
京の都に到着してから緊張の連続でその糸がプツンと途切れて発症したらしい。
幸いにもお龍が都一の薬の調合士を訊ねて解熱薬を処方してくれたそうだ。
最も忍びなら自分で調合する事も可能なのだが、「餅は餅屋」と言う様に上様直々に本職に任せた。
「・・・三日も寝ていたとは忝ない。」
「西郷殿や桂殿から見舞いの品物を預かっている。暫く此方の方はやっておくから静養に赴くが良い。」
「重ね重ねの御厚意、誠に勿体のうございまする。」
その後数日間坂本は寝込んだが、五日後には全快した。



京の烏丸三条。坂本はある場所に向かっていた。病み上がりな体にも関わらず歩む足は別段常人と変わらない。
向かった先は刀鍛冶の居る店だった。
烏丸三条に店を構えている“立風”。腕利きの職人が揃っている事でその実力は畿内では一二を争う。
その中でも刀鍛冶師で全国で五指に入る腕を持つ職人が居た。
彼の名は八代五右衛門(やしろ ごえもん)。元は平民なのだがその腕前では勿体ないと帝直々に名字を賜ったそうな。
若い頃から刀を打つことに専念し、年数だけなら既に五十年を数える。
その腕は神業と言っても過言ではない。非常に年季の入っている腕で剣を打つ時は正に真剣勝負の眼差しである。
彼の打った太刀は使うことだけでなく芸術的にも非常に価値のある一品を仕上げる。
坂本は毎回この刀鍛冶師に依頼している。
「頼もう〜。」店先の暖簾から入っていくと誰の姿もなかった。
この声に反応して奥から若い刀鍛冶師が出てきた。
「あ、お侍さんですか。」
額から吹き出ている汗を手拭いで拭いながら応対した。中では刀を打っているのだろう。
現在のガラス細工をしている人達は真夏だと工芸の室内温度が50℃を超えてもおかしくない環境下に置かれていることも稀ではない。
「失礼だが、五右衛門殿は?」
訊ねてみるとその若い連中の顔色は一瞬にして曇った。
「あぁ、親方ですか・・・。親方は最近になって隠居しました。」
この話を聞いて一番驚いたのは本人だった。
まさか隠居生活に入っているとは・・・。年齢的にはまだまだ元気でやっていると思っていたが体力が持たないのか。
その若い連中に五右衛門の現在の住処を教えてもらい、早速訪れることにした。

隠遁生活を送っていた場所は京都の嵐山だった。それもかなり山奥の方である。
実際に向かってみたが、かなり簡素な造りの家に住んでいた。
こんな家に住んでいて雪が積もったら大丈夫なのか、と一抹の不安を抱えつつも家の扉を開けた。
中を覗いてみると刀を打てる窯と煙突があること以外別段変わらない。
辺りを見渡してみると誰も居ない。留守か。
改めて出直してこようと振り返ったとき、そこに人影があった。
「誰だ?この老い耄れなんぞに用があるモンは。」
釣り竿を肩に掛けて反対側の手には魚を入れている魚籠がある。どうやら近くの川で魚釣りをしていたようだ。
「五郎左殿。お久しゅうございます。」
「おぉ、お前さんか。今回はどんな土産話を持ってきてくれたのか楽しみじゃわい。」
すると五郎左右衛門は自宅に入ろうとせず、そればかりか反対側の方向へと歩き出してしまった。
呼び止めようとすると此方に振り返って手招きをしてヒョコヒョコと歩いていった。
仕方なしに自分も彼の後を着いていくことにした。
暫く歩いて行き着いた先は川の側にある小さな小屋の集落だった。
住んでいる者達は大体想像できる。都に住むことが出来ない“えた・非人”と呼ばれと蔑まれている者達であろう。
着ている物はボロボロで所々繕っている箇所が見受けられる。草鞋も履けず、砂利道でも素足で歩かざるを得ない。
「ほれ。今日釣れた収穫じゃわい。」
ありがたい、と深々と頭を下げる貧民の人々。中には手を合わせて合掌をする人の姿も。
「坂本殿。これが最も下で苦しんでいる姿なのだ。この世の中はもっと変わらなければならん。民が繁栄してこそ安寧の世を迎えるのだ。心の奥底に必ず秘めておくのだぞ。」
これは何かを諭すかのように語りかけていた。まるで何かを悟った賢者のように。
そうして自分が今日釣った魚を分け与えると自分の住んでいる小屋へと戻っていった。
囲炉裏に薪を焚いて暖を取ると早速今回の用件を見抜いた。
「・・・そろそろお主の太刀を直す季節かな。」
「そうですね。早一年になりますし。あれから京を出発して江戸に一度戻った後に信州を経由して北陸路を旅しました。そして金沢では一ヶ月ほど滞在していました。」
太刀を手渡しで五郎左右衛門に見せると顔色が曇った。
「ふむ。お主、相当振り回したな。刀が大分痛んでおるのぉ。悲鳴を上げている。」
「どれくらいの時間がかかりますか?」
「・・・一から打ち直すとして大体二週間程かかる。早く仕上げても十日か。」
十日も自分の腰から太刀を手放すとなるとこれは一大事である。
武士にとって刀は自分の命と言っても過言ではない。
さらに紫電の方も鞘から出してみると五郎左右衛門の喉が唸った。
「それにこっちの方も使ってはいないが長い間使っていないから刀が拗ねている。こっちも直さなければならない。じゃから占めて二十日から一ヶ月与らせてもらう。」
流石にこの姿格好で脇差一本とはなんとも貧相である。それにいざという時の対応を考えるとあまりにも不用心だ。
「・・・どうにかなりませんか。脇差一本では不意打ちを喰らった場合に太刀打ちできません。」
「ふむ。確かに武士にとって刀とは身体の一部。今時の武士ときたら自らの身体の一部を鍛えるのを疎かにしている。だから最近の若い武士は好かん。」
「しかし代わりの太刀が見当たらないのですが・・・。」
「おぉ、そうだった。お前さんに見せたい物がある。着いて来なさい。」
また簡素な入り口の暖簾を手で払って外に出ていくとまた貧民の集落へと歩いていった。
衰えない脚力でずかずかと集落に入っていく姿を見て戸惑いながらも着いていく坂本。
しかし辺りからは見慣れない若いモンが自分達の領域に踏み入っていく姿を快く思わない連中が白い目で睨み付けてくる。
そんな容赦なく浴びせられる痛い視線を潜り抜けてようやく一軒の仮設小屋に辿り着いた。
小屋の中に入ると鉄槌や鋏み、それに鉄屑が足の踏み場もない程一面に散らばっていた。
「わしゃな、此処に来て本当に心が洗われる思いだった。土をいじったり、暢気に釣りをしたり、時には柄でもないが詩歌を嗜んだり・・・。
でも次元が違う者が居ることを此処に来て知った。明日食う事に困る者、怪我や病になっても医者に診てもらえない。差別だけで他人からは白い目で見られる。
彼等に少しでも生活の糧になってくれるように文字を教えたり、メシを分け与えたり、薬を煎じてやった。何もかもが初めての体験で全てが無我夢中だった。
・・・じゃが此処での生活は非常に活き活きとした生活を送る事が出来る。わしは神様のように崇められている。なんとも皮肉じゃのぉ。彼奴達を堕とす為に一役買ったワシがこんなになるとは。」
この話をただただ黙って頷いて耳を傾けるしかなかった。
全国に幾つの数の非人がいるのか現在の幕府はおろか我々ですら把握できていない。
華のある大奥や将軍様の生活と比べれば非人の生活は正に天国と地獄である。
「じゃがのぅ。彼等の魂は根元から腐っていない。欲望に手を染めていないから彼奴達に刀を打たせると実に透き通った傑作を作ってくれる。
・・・わしがその時点に到達するまで二十年かかる技術を半年で習得した事には甚だ驚きとしか言い様がない。」
そして奥の手作りと思われる見窄(みすぼ)らしい棚から一本の刀を取りだした。
「わしの全ての技術を結集して一から作り上げた傑作、“なまくら”じゃ。」
その銘を聞いて愕然とした。あまりにも縁起が悪い極まりないからだ。
俗に“役に立たない刀”を“なまくら”と呼ぶだけに心持ち心配が尽きない。
そんな困惑した顔を見て五郎左右衛門は大笑いをした。
「かっかっか。心配ない。この出来は今まで作ってきた刀の中でも最高の一品じゃ。この裏山に竹藪があるから試し斬りでも致せ。」
なんと傲慢な翁なのだ。この時ばかりはそうとしか感じられなかった。



確かにお誂(あつら)え向きで竹藪があった。
土地の地主には話をつけているらしく、自由に斬って良いらしい。
人気もない。着いてきた者も居ない。誰に構わず斬り続けることが出来る。
しかし試す刀はと言うと鞘に収まっているとは言え、実に奇妙な感触だった。
重くもなく、軽くもなく。普通なら鞘に収めているだけで相性がわかるのにこの刀からは相性が感じられない。
つまり万人向けなのか。誰にも使いこなせるのか。
そう勝手に断定した。決めつけた方が無駄に考えるより気が楽だからだ。
呼吸を整え、静かに目を瞑る。精神と肉体を鎮めて集まった力を一気に解放する。
例え試し切りとは言え真剣勝負。怠った場合使い手に大きな損傷を与えかねないからである。
笹が風で靡く音が辺り一帯をこだましている。その音は竹の中に吸い込まれていくように静まっていった・・・。
風が止む頃、坂本に風神が舞い降りた!
急な斜面にそびえ立つ竹の群生を斬りながら一気に頂上まで駆け上がる。そして頂上に到達すると静かに刀を鞘に収めた。
すると今まで何ともなかったようにそびえ立っていた竹が次々と薙ぎ倒されていった。
竹藪の群生地帯だったはずなのに彼が切り倒した一角だけ直線的に広く見渡せるようになっていた。
そこへ先程の五郎左がやって来た。
「おぉ、精が出るね〜。」
今まで見通しが利かなかった場所が一瞬にして様変わりしていることに驚きを隠せなかった。
だが今の五郎左右衛門にとってそんな事より自分の作品がどんな感じなのか確かめる“職人”の意地が強かった。
「どうじゃ〜、感触の方は?」
そう言われても返す言葉が出てこなかった。
結論から言うと“良い”に違いないが、その中には紆余曲折が含まれている。
使い手に馴染んではいないが、実に忠実に刀が使い手の力に組み込まれていく。
時に重く感じ、また軽く感じるのは多分刀の作用なのだろうか。まるで使い手の意志を鏡のように写しだしている。
刀が使い手に馴染んでいない事は大変な事を意味する。
互いの関係は一心同体が一番望ましい。その為全国に名を轟(とどろ)かすくらいの剣士は必ず刀を選ぶ目が厳しく、自分の呼吸に合った物を愛用している。
もしも呼吸が合わない剣を使った場合、刀が折れる若しくは使い手に大きな打撃を与える危険性がある。
使い易い、と言えば使い易い。しかし“馴染んでいない”という点では重大な欠点でもある。
なので五郎左右衛門に返事を返すことなくただただ俯いているしか方法はなかった。
右手に持った刀をただじっと見つめる様子に何か察したのかまた大声で叫んだ。
「その刀、お前にくれてやる。答えが見つかったらいつでもワシの元に来なさい。」
言いたいことだけ言ってその場をそそくさと立ち去っていった。
一人残された坂本は暫く呆然と同じ体勢で立っていたが、空に暗雲が立ちこめて雨が降り出すと鞘に刀を納めて雨宿り出来る場所を求めてその場から立ち去った。


雨が止むと再び同じ場所に坂本は居た。
濡れた袖・袴も何とも思わずひたすら奇々怪々な刀と真っ正面から向き合っていた。
使えば使うほど謎が深まるばかりの刀にどうしようもなかった。
(この刀は何を求めているのだ・・・。そして何を思っている・・・。)
対等に話し合っているつもりなのだが相手からの返事は何もない。相手はただ沈黙を守り白銀に映る太陽の光を映しだしていた。
まぁ普通に刀とお喋りできたら変人扱いされかねないのだが。
濡れた髪をたくし上げるとその足で寺子屋へと向かおうとした。
その時だった。竹藪の何処かからか不穏な気配を感じた。そして徐々に自分の方向へと近付いてきていた。
(敵か。いやしかしそれにしては様子がおかしい・・・。)
敵方の忍びならば複数で電光石火のように攻撃してくるが今回の相手は様子を窺っているみたいだ。
刀を鞘に収めて臨戦態勢に入る。いつでも居合いが出来る状況である。
しかし突如その気配は何事もなかったかのように消えてしまった。
不審に思いつつも遠ざかった気配に緊張の糸が緩んだ。
緊張の糸が解けた瞬間、その気配は再び現れた。しかも自分の頭上に。
不意を突かれたが、鞘から刀を抜くと頭上からの一撃を間一髪で防いだ。
相手は高下駄を履き、何やら怪しげな山伏の格好。更に鼻が象のように長く、それに負けず劣らずで白い髭も蓄えている。
それに付け加えて一段と怪しさを醸し出しているのは―――奇妙な天狗の仮面。
見れば見るほど謎が深まる。正にこの“なまくら”のように。
錫杖を地面につけると右手で長い髭を触ると喋ってきた。
「ふむ。なかなか良い動きをするな。平々凡々な連中とは格が違う。」
「・・・お主、何者?」
奇怪な格好と言い、物言いと言い何から何まで怪しい。
「ふっ。見て判らぬか。わしゃ天狗じゃよ。」
「天狗・・・だと。巫山戯る(ふざける)な。下らない戯言を言うな。」
「巫山戯てなどおらぬ。“鞍馬の天狗”とも呼ばれていた時代もあったかな。遮那王を育てた事もあったしな。」
遮那王―――
後の源義経の事で鞍馬寺に預けられていた時の法名。
鞍馬寺に入れられていたときに密かに武術を教えていたのが“鞍馬の天狗”と伝えられている。
その時代カリスマ的な戦術
(※法名・・・仏の弟子になると与えられる名前。それにより俗世と決別したことを意味する。)
この時武術を伝授したのが鞍馬の天狗とされ、後々の平家滅亡の活躍に役立ったとか。
「まぁこのご時世なのだから簡単に手練れな剣客を探すのに困っておるわい。先日相手した堂上の次男坊も大した事なかったしのぉ。」
これは厄介な相手だな、と察することが出来た。
先日接触した堂上嶽家は関西はおろか全国でも剣客には知られている有名な手練れ。
それをあっさりと『大したことない』と言い切れるところだと格段な力の差があると推測できる。
自分でも相手の力量が計り知れない。此方が上か、それ若しくは相手が上か。
しかし相手の方が上だろうと見た。先程の一撃は非常に重たく、手が痺れそうな感覚だった。
さらに竹の群生地帯を俊敏に動き回る脚力、さらに何百年も培われた経験則。
わかっているだけでも全て自分が負けている。
(面白い。どこまで自分の腕が通用するか試してみるか。)心の底から何とも言い難い挑戦心が湧き上がってきた。
その表情を見て天狗は此方側の意向を感じ取った。
「ふむ。その目、気に入った。お主の名前は何という?」
「永禮。坂本永禮と申す。」
「その名前も気に入った。いざ尋常に勝負!」
視界から一瞬のうちに消えた。しかし気配は背後にある。
なんとか後ろを取られないように走るが相手もピッタリ自分と同じ速さで追い掛けてくる。そして背後にいる関係は解消されない。
竹林が無規則にそびえ立っているので視界も悪い上に足場も悪い。スピードを出しすぎると簡単に竹とぶつかってしまうだろう。
白銀に光る刀をさっと抜くとそれまで飛ぶが如く歩めていた脚を止めてそこから一気に体を捻って片手で背後を斬った。
だが斬れたのは立っていた竹だけで天狗は斬れなかった。
停止から攻撃に移り変わる刹那の間に常人では不可能なくらいの高さを跳躍して攻撃を避けたのだ。
だが高く上がりすぎたせいか天狗の姿は依然として宙にあった。その隙を見逃すはずはなかった。
逆手に握りを変えると天狗が着地するタイミングを見計らって体を器用に一回転させて辺りのモノ全てを一瞬にして斬った。
彼の周囲の竹を薙ぎ倒され、絨毯(じゅうたん)のように地面狭しと敷き詰められていた落ち葉は行き場を失って宙に待っていた。
それ程威力が絶大にある技なのであろう。
回転後低姿勢に蹲(うずくま)っている彼はふと目線を上げると天狗の姿は眼前にあった。
「ほっほっほ。お見事、お見事。まさか“真空”まで斬るとはのぉ。」
蓄えられた細長い髭をさするその表情は実に楽しそうな顔つきだった。
地面に錫杖をドンと叩くとついている丸い三つの鉄はシャナリ澄んだ綺麗な音を鳴らした。
ふと足下を落としてみると天狗の高下駄は左側の二対あるものが前面だけ綺麗に斬れていた。
「拙者渾身の技『風龍真技(ふうりゅうしんぎ)“斬空”』が通じぬとは・・・。手応えがあったがそれだけか。」
ガッカリしたような口調だが顔色は実に明るかった。滅多に表情を表に出さない顔からは笑みがこぼれていた。
「ふむ。『風龍真技』の使い手とは・・・。お主はやはり代々受け継がれし神から授けられた血筋の子孫か。」
天狗は高下駄を脱ぎ捨てると足袋も脱いで裸足になっていた。その口振りからは何らかの事実を知っていることが伺い知れた。
落ち葉の湿気を足裏に馴染ませると脱ぎ捨てた下駄の裏側と切り落とされた下駄の脚をじっと見つめた。
見ていたのは斬られた断面。鋭利な刃物で切断したような切り口に天狗はただただ唸(うな)るしかなかった。
宙に浮いている時点では彼との距離は確実に刀が届かない部分に着地する予定だった。そのため刀が当たったとしても剣先が掠(かす)る斬れる程の威力はなくなっているはずである。
しかし断面は綺麗に真っ二つに斬られたことが現実を物語っている。
まるで見えない刃(やいば)が稲妻の如く空を駆けぬけたかのように・・・
「その技、やはり空(くう)を斬れるのか・・・。」天狗は察したように呟いた。
対して彼は膝を持ち上げると袴に付いた落ち葉を払い落とすと口元を緩めた。
「流石天狗といったところか。左様、この“斬空”は空を斬ることが可能。」
現在においても何もないのにモノが切断されるということが稀に起きることがある。
主に気圧の高いところから低いところへ気圧が移動するときに風が発生する。その高低差が大きいほど風は強くなる。
だがその高低差がある程度を超えた時、風は刃と化する。何もモノがないのに風によって物体が切断されるのだ。それは最大で1キロ四方に被害が渡る“見えない鋭利な凶器”なのである。
日本では“カマイタチ”という妖怪伝説が残っているがこれがそれに当たる。
この原理に似ているのがウォーターカッターと呼ばれるダイヤモンドなどを加工するときに用いられるモノだ。
とても高い水圧によって刃物が歯に立たない堅いモノでも切断する事が出来る。
彼もまた方法は定かではないがそういった類の技が使えるのである。
「また厄介じゃのう。お主は若そうだが腕は全国で十指に入るに違いない。手加減できないのぉ。・・・」
まるで独り言を呟くようにボソボソと口を滑らせていた。
何が何だかわからないで相手の様子を窺っていると天狗は「よし」と発した後また此方に向かって話してきた。
「楽しみは後々まで残しておきたいのぉ。ここは一旦退かせてもらおう。いつでも良いから満月の夜に嵐山へ来い。万全を期して待っていてやろう。」
そう言い残すと懐から取りだした大きな葉っぱを振り翳(かざ)すと辺り一帯に旋風(つむじかぜ)が発生して一瞬のうちに天狗はその場から消えてしまった。
呆然と立ち尽くしていると突然極度の疲労感に襲われて意識を失ってしまった。







次に目を開けたときには寺子屋の天井が上にあった。
布団から出ると傍らには頑真と上様が心配そうな表情を浮かべていた。
起き上がったは良いが妙に強い倦怠感と疲労に襲われてまた布団の上に倒れ込んでしまった。
「永禮、気分はどうだ?」問いかける上様の顔色は実に悪く、寝ていないような表情だ。
あまり状況を把握できていない所にいつの間にか控えていたお龍が説明した。
「お主が無惨に切り倒された竹藪の中にひっそり仰向けになって倒れているのを土地の者が発見したそうだ。幸い手当てが早かったお陰で一命を取り留めたが・・・」
この報告にふと奇妙なことが頭の中に引っかかった。
私は倒れる直前まで微かに覚えている記憶を紐解くと膝の力がなくなってそのまま地面にガクンと着いた後平衡をとれずに前へ倒れ込んだのだ。
そうなると確実に俯せになっているはずだ。だが発見されたときには仰向けにされていたのだ。
ここから導き出される答え。それは“天狗が何か私に慈悲を授けた”ということ。
「・・・聞いているのか。お主。」
気付いたときには喉元にお龍の右手に握られた小刀が今にも刺そうと思わんばかりの距離に突きつけられていた。
返事どころか身動きすらとれない状況に上様が宥めるとお龍は渋々小刀を鞘に収めた。
「何にしても医者の言うには静養が一番らしい。ここは暫く休養するように・・・」
そんなことを言っている間にも彼は立ち上がって手足の感覚を確かめていた。
先程まで体を縛り付けていた倦怠感・疲労感は全く感じられなくなり、逆に調子が非常に良くなっていた。
突然の様変わりに周りの人達は何があったのかわからない表情だった。正しく“狐につままれた”という表現が一番似合う。
その後も何事もなかったかのように振る舞い、(周りの者が心配していたので)一日休んだだけで翌日からは桂・西郷の仲直り工作に赴いた。
変わったことと言えばその日一日の食欲がいつも以上に旺盛だったことか。




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