翌日、桂邸に出向くと桂殿はなにやら頭を抱えているようだった。 「おや、桂殿。いかがしましたかな?些か窶(やつ)れた 風にお見受けしますが。」 「あぁ、坂本殿か。心配御座らぬ。少し痩せただけで す。」 しかし桂の笑顔で皮肉にも以前より肉が削げ落ちたのがよ くわかってしまう。公務が色々と溜まっているせいか殆ど 休んでいないのだろう。 己の身体を犠牲にしてでも藩の為に尽くす。眠る時間も恐 らく一刻たりとも勿体ないのだろうか。 縁側に陣取っているから陽の光が射し込んできている。そ の光に当たっている桂殿が何故か透けて見えるような気が した。 「お久しゅう。桂はん。」 絹のような綺麗で透き通った細い声が縁側から聞こえた。 とても大の男が出せるような声ではない。 後ろには舞妓のような顔立ちの女性が立っていた。顔も細 いし顔立ちもすっきりしている。なにより色白。 「幾松か・・・。今日はどうした?」 それまで険しい表情だった桂の顔が女性の訪れによって柔 らかな笑顔が浮き出てきた。 多忙で気の休まる日々がなかったのだろう。まるで永久凍 土の氷が太陽の光に当てられて溶けていくように顔の筋肉 における固さがほぐれていった。 「ところでそこにおわすお方はどなたですのん?ここらで は見ない顔でんなぁ。」 「あぁ、このお方は加賀藩の坂本永禮と申すお人だ。最近 私をよく見舞ってくれるので非常に助かっている。」 桂が紹介すると不安そうな表情をしていた女性は一転して 明るい顔で私に顔を向けた。 「失礼しはりました。私芸鼓をしとります幾松と申しま す。以後宜しゅう。」 確かに彼女は芸鼓のような身振り・顔立ちであった。召し ている着物も実に華やかで高価な一品であろう。 簪(かんざし)一つにしても細かな部分にまで細工が施さ れている。 ひたすら無礼を詫びる態度は夜に生きる女性とは思えない ほど物腰が低かった。 そして何やらその場に居合わせた事が邪魔だと察したのか 引き留める桂に挨拶をして元来た道を戻っていった。 取り残された二人は縁側に庭の方向を向いて腰掛けた。 「しかしお美しいですな・・・。あのお方ならば良い夫婦 (めおと)になりましょうぞ。」 「いやはや、お恥ずかしい。」 照れ隠す素振りを見せずに赤面して耳まで見事に茹で鮹の ように赤くなっていた。 そうして雑談を交わしていると反対方向から誰かが此方に 向かって歩いてくるのが目に入った。 年の頃は二十か三十。痩せ形で色男といった風貌ではない がなにやら一癖ありそうな顔つきである。 何事も顔で判断してはならないが、大体顔の様子からその 人物を把握することが出来るし相手の印象を形作ってしま うのだ。 「桂〜、調子はどうだ〜?」 「高杉。客の目の前だぞ。少しは礼儀を弁えろ。」 飄々とした物言いに桂が注意を促すが聞く耳を持っていな い。虚け(うつけ)と言うべきか大物と言うべきか。 どうやら堅苦しいことは苦手なのだろうと推測できる。 「ん、お主何者?」ようやく客がいるということがわかっ たが一向に態度を変えようという兆しは見受けられない。 「拙者、加賀藩家老の坂本永禮と申します。以後お見知り 置きを。」 此方側が会釈を相手もつられて会釈を返した。 「俺は高杉勇(たかすぎいさみ)。その若さで家老なんて 職に就いているなんて大変ですな。」 単なる皮肉なのか此方側の裏事情を把握しているからなの か。 普通なら褒めることをこのような振る舞いで返すとは非常 に読めない相手である。 しかし常人には思いつかないような発想を持っているとい うことを才能と捉えるならば、桂というお方は人材に溢れ ていると考えても良いだろう。 乱世であったならば、それが身の破滅を呼びこむとも、は たまた天下を制するとも転んだかも知れないだろう。実に 惜しい人である。 暫く三人で語り合っていたが、所用のために坂本は桂邸を 後にした。無論大切な客人として扱われていたため桂自ら が玄関先まで見送りに赴いてきた。 客人の姿が見えなくなると高杉はぼそりと呟いた。 「なんか怪しい・・・。なにか重大な隠し事を持っていて 我々に話していない。」 「勇。そんなことを申していたらきりがない。お前の眼に 入る万人全てが怪しく見えるだけだ。」 独り言のように高杉の警戒心を諫めた。しかしそれは自ら にも言い聞かせていたのかも知れない。 だが高杉の顔には未だに納得していないと書かれていた。 「・・・そんなに怪しいなら召し抱えている密偵を放って みてはどうだ?」桂は半ば諦めたかのように呟いた。 高杉には普段は町民として生きているがいざ命令を受ける と秘密裏に動く“密偵”のような者達がいた。数は把握で きないが相当多くの人数が全国に散らばっていると思われ る。 忍びと比べるとぎこちなさもあるが、情報収集力にかけて は非常に優れている。 なにより彼らは常日頃の生活は民衆として生きているので 戦闘能力は皆無であるがそれでも充分に満足のいく働きを しているのだが。 だが“密偵”を雇っている以上、いつ幕府から監視の眼に 引っかかってもおかしくない状況である。これが表沙汰に なれば藩が取り潰しにされてしまうだろう。 そんな危険と隣り合わせの裏事はもしかしたら他の藩でも 同様の密偵を放っているのかも知れないが、実際の事実を 把握しているので真相は定かではない。 大坂、石田邸。先日狼藉者が侵入した一件以来、屋敷の警 護が一段と強化された。 松明が煌々と焚かれ、人員もそこかしこに配置されてお り、易々と不審者が侵入できないようになっている。 先日の一件では幸い世の中に晒されずに済んだが甚大な被 害を被っている。忍び六人が殺傷されていることから重要 な情報を盗まれた可能性も否定できない。 だが計画は既にちゃくちゃくと見えない所で滑り出してい る。兵糧も徐々に決戦の時に備えて蓄えられている。 寝床には天下を乗っ取る野望に思いを馳せている主君が蝋 燭の火を灯しながら思い耽っている。 その傍らには彼の腹心である島左近丞久昌(しまさこんの じょうひさまさ)が控えている。別段大柄というわけでは ないのだが身体全体が盛り上がっており、鍛え上げられた 筋肉は見事に引き締まっている。 彼の左目には戦場で負った傷からなのか眼帯が当てられて いた。隻眼(片方の眼しかないこと)なのである。 その眼帯からはみ出るように刀で斬られたと思われる傷が 顔に深く刻み込まれている。 「・・・嶋よ。」 はっ、と低く声を出して主の寝床へと寄る。だがさらに接 近することを望む。 こういう時はほぼ間違いなく他人に聞かれたくないような 話をする。忍びなどに聞かれて幕府に察知されたら身の破 滅に一直線である。 耳元にまで近寄るとようやく小声でぼそぼそと話しかけて きた。 「首尾はどうだ?」 「問題なく着々と進行しつつあります。・・・ですが肝心 要である片貝家の切り崩しが難航しています。」 その報告を聞くと一瞬にして石田の顔色が曇った。たまら ず手元に置いてある扇子の端を囓る。 当然である。計画の核となる部分が遅れを生じていると全 てに於いて遅れが発生し計画自体が頓挫(とんざ)しかね ない。 これまで極秘に進めてきた事が水の泡に帰すのも非常に無 念である。 「・・・殿様もなかなか大変ですな。」 突如聞き覚えのない声が聞こえてきた。 嶋は屋敷に仕えている者・家臣一同の声や顔は全て記憶に 叩き込んでいるが全く身に覚えがない声である。 「何奴!」一瞬にしてその場に緊張が走る。嶋は主を守る ため刀の鍔に手をかける。 外では兵が警備し、忍びも屋敷内に蔓延(はびこ)ってい る。その包囲網を難なくすり抜けるとなると相当の強者で ある。 だが辺りを見回してみても天井を見上げても誰もいない。 殺気も感じられない。 気のせいか。肩の力を緩めると石田の側に見知らぬ老人が 座っていた。 「な・・・。貴様、いつの間に!?」 狐に摘まれたような表情をしている嶋に事の真相を話す。 「あぁ、貴奴は我が片腕で“綾延(りょうえん)”と申す お方だ。今回の計画で智恵を貸して下さっている。」 「綾延と申します。以後お見知り置きを。」 老人は簡単な挨拶をすると頭を下げた。 召し物は真っ赤な上下で実に動きやすそうな服装である。 顔には無数の皺が刻まれている。 しかし気になるのは奇怪な技によってこの部屋に辿り着い たことである。一体相手が何者なのかといった考えが脳裏 を過ぎる。 万が一、この老人が敵だった場合この世に嶋と石田の存在 は消し去られていたであろう。 なにやら密談が始まったらしく、一礼してその場から下が った。 「嶋殿。」 廊下を歩いているところで突然声を掛けられた。彼の元に 仕えている堂上であった。 まだ若干27歳ながら頭の切れと剣の腕が買われ、役職は 低いながら主君石田も一目置いている。 もちろん嶋もそんな後輩を可愛がっており目にかけてい る。その敏腕を買って将来は嶋の片腕を担うと家臣の中か ら出ている程である。 堂上もまた同様に嶋を慕(した)っており尊敬している。 「おぉ。堂上ではないか。如何した?」 「先程石田様の部屋になにやら怪しげな格好をした者がお りましたが何方なのでしょうか?」 流石は堂上流剣術師範の息子。そこら辺にいる人達とは全 然違う。 人にはそれぞれ“間合い”というものがあり、気持ちを許 さない他者の侵入を許さないのである。 その“間合い”は鍛えられた者であれば長くすることが可 能であり、しかも見えない敵をも手に取るように見透かす ことができる。 実際に剣の達人で少し離れた庭に生えている木から葉っぱ が落ちるのを実際に見ないで当てたことがあるというから 驚きである。 恐らく彼も何らか不穏な気配を察知して突如忍び込んだ者 を割り出したのであろう。 「あぁ。なにやら策士のような者なのだが正直私は気に食 わない。」 実を言うと嶋は幾度か綾延と顔を合わせたことがある。先 日何者かが屋敷に忍び込んだ時にも嶋は石田の指図で彼を 玄関まで送り届けている。 だが彼の表情の裏には怪しげな思惑が隠れているのが見え るのである。 堂上も嶋同様に綾延を信頼していない。堂上に言わせれば 『あの者は只ならぬ怪しい気を発している。』ということ だ。 「しかし我らという者がありながら石田様は何を考えてい らっしゃるのか・・・。」 「侍が陰口を叩くのではない。それに主君へ対する悪口も 慎むべきだ。」 堂上の武士ならぬ態度に嶋は戒めた。が、堂上の表情は未 だに曇ったままである。 やはり熱たぎるように熱くなれるのは若気の至りなの か・・・。三十路に踏み込んでいる我が身と比べて多少羨 ましさを感じた。 疲れを知らず、夜眠らなくても支障なく、無尽蔵に溢れる 体力、いつでも熱くなれる心。自分も数年前まではそうだ ったのに今ではなにもかも懐かしく思える。 だが押し寄せる年並みには勝てない。最近では熱くなるこ ともなく物事を冷静に、悪く言えば冷ややかに捉えてしま う。 酒を口にすると愚痴が出てきたり、妙に涙もろくなった り。なんとも嫌な話である。 しかし体術・体力は衰える兆しはない上に、冷ややかに物 事を評価できる為若い輩に負けるようなことはまだまだな い。 「・・・そういえば堂上の家は武士ではないのだな?」 「はい。普段は屋敷へ出仕することないので父の剣術道場 を手伝いつつ街を散策しております。時折暫しの間諸国を 旅することもありまする。」 「何に縛られることないそなたが、今の私には非常に羨ま しい限りだ。」 虚ろで悲しげな瞳をしながら嶋は語る。 「昔より家に囲われ、主君につながれ、忠誠に縛られた。 そのため堂上のように自由になれるような時などなかっ た。私はただひたすら飼い主に尾っぽを振っている狗(い ぬ)でしかないのだ。」 忠誠心が高く、文武両道で器も大きいと評判の嶋が漏らし た言葉は何故か心に響いていた。 長年石田の家に仕えてきた譜代の生まれで幼い時分より稽 古と手習いを覚えさせられていた。彼の父もまた主君に対 する忠誠心が非常に厚かった。 彼の全ての生活に置いて“武士”に関係しない一時など存 在しなかった。食事の時も作法を教わり、寝床の傍らには 何十冊もの書物が置かれていた。 遊びも殆ど体を鍛えるために存在していた。水泳・馬術・ 相撲。どれも負けることは少なかった。 それに対して堂上は幼いときから剣術を初めてはいたが、 普段はそこら辺にいる町人の子供と遜色なかった。 年を経て父から腕を認められると、いち早く大坂の街から 飛び出して諸国へ武者修行の旅に出ていった。 色々と苦労は絶えなかったのだが全国を放浪して数多の剣 士と渡り合い、常に大勝を収め経験を積み重ねていった。 大坂に戻った後には父の強い薦めにより大阪城代の元に仕 えることとなった。が、お堅いことが苦手な堂上は時折外 の空気を吸いにふらりと出ていく。 それさえ無ければ今頃は恐らく重要な官職についていたか も知れない。 「・・・拙者のような道楽者の考えなのですが、時間を頂 いて近場へ参るというのは如何でしょうか?不束ながら拙 者も同行しますが。」 「それは有り難い。だが暫くは用務が多くてな、二月後と いうところかな。」 「拙者は構いませぬ。何処へなりともお供いたします。」 まだ二月も先の約束なのに今から心待ちにしている二人で あった。 一方先程の寝床では蝋燭の灯を消し、声色を低くしてなに やら密談が交わされていた。 「…して、手筈のほうは整っているのか?」 「無論に御座いますとも。近習の者共もあなた様の謀略に は誰も気付いておりませぬ。」 「うむ。手抜かりのないようにな。」 「心得ております。」 廊下から何者かが近づいてくる物音を聞くと「では御免」 と言い残して屋根裏へと落ち延びていった。 襖を開けて侍従が中の様子を伺ったが何も変わったことは なかったので何事もなかったかのように通り過ぎていっ た。 しかし寝床にいる主人が仮面の裏側で壮大な計画を練って いるとは到底考えつかなかったであろう。 厚い灰色の雲が北風に流されてきた。時期に初雪の便りが 届きそうである。 山の木々も既に丸裸となっており青々とした松の木の緑が 周りの木々と比べると実に映えている。 都の街も冬の移ろいへと変わりつつあった。 そんな中、水面下で行われている西郷・桂との交流も徐々 に頻度を増しており休暇をとれる時間すらなくなりつつあ った。 交渉役を任されている永禮は寒い北風の下、西郷邸へと赴 いていた。 部屋の片隅に置かれている火鉢には火が入っており、つか の間の暖をとってくれる。 障子がガタガタと揺れる音からは外の風が一段と強く吹い ている様が如実に伝わってくる。 「いやいや、お待たせしましたでごわす。」 寒さから手を擦りながら上座の方へ足を進めていく。 「この寒い中わざわざ屋敷にまで出向いてくれるとは誠に 忝ないことでごわす。」 「なんの。このくらいの寒さなど北国生まれの私にとって は生易しい方でございます。」 「おいどんなどはこの京に幾年か暮らしておりますが、南 国育ちゆえになかなかこの寒さには慣れることができませ ぬ。」 お互いに故郷の四方山話(よもやまばなし)で盛り上がっ ていたのだが突然西郷が顔色を変えた。 「・・・ところで、お前さんらは何が目的なんでごわす か?」 「はてさて。私にはさっぱりわからぬでございますが。」 話をはぐらかそうとしたが、西郷の顔色は一向に変わって いない。 その円らで大きな瞳が此方の顔を穴が開くほど凝視してい る。細かな皺の動き一つすら捉えるようにも見てとれる。 なんらかの不穏な様子が表情に浮かんでしまった場合には 拷問にかけてでも問いただす意気込みである。 不審な動きも話を逸らすことも出来ない。ならばここは真 っ向から当たるしか方法はない。 出されたお茶を一口ほど口に含んで喉を少し湿らすと俯か せていた顔を西郷と対面させた。 その大きな体はこれでもかと言わんばかりに近付いている ように感じられた。 実際には西郷との距離は畳半畳程度の間があるのだが拳二 つ分しかないように思えるほどである。 ここで目を逸らした場合には相手の疑念はさらに高まって しまう・・・。回避するには負けじと此方も折れることな く相手の瞳をじっと見つめること只一つ。 潰れそうに感じる重苦しい雰囲気。音で溢れている外界と 遮断され静寂を保つ室内。音を奏でるのは障子に吹き付け る風の音と火鉢に灯されている炭の弾ける音のみ。 先程出された茶の器には風の波動が伝わってか波が立って いる。畳は何も語ることなくただ冷たくじっとしている。 石のように固まって対峙していた二人だったが、ふと西郷 が唇の乾きを潤すために前に置かれているお茶に口をつけ た。 そして喉の奥から小さな溜め息を吐きだし、遂に動いた。 「・・・本当になにも知り申さぬのか。」 沈黙に耐えかねて遂に西郷が口を開いた。 それに対してあえて此方側は沈黙に徹する。普通ならこの ような手を打つとまた膠着状態に陥ってしまう可能性が高 いのだが、この場合には沈黙に徹した方が効果的だと判断 した。 「いやいや、おいどんが悪ぅもうしたでごわす。永禮殿を 疑うなど本当に申し訳ないでござった。」 遂に相手側の疑念が晴れたみたいだ。顔色も先程までの表 情から一変して親しみのある微笑みが浮かんでいた。 これで何事も起こらなければ二度と私を疑うような行為や 眼差しを向けることはない。彼の顔を見てそれを確信し た。 何度も疑ったことを謝ったがそれをなんとも思っていない ように振る舞ったが、西郷は一向に納得しなかった。 お詫びの意味を込めて金子少々を私に無理矢理受け取らせ た上に帰りの駕籠を手配し、自ら寒い風が吹き荒む中玄関 まで出てきて見送ってくれた。 その後西郷は先程の部屋まで戻ると自ら座していた場所に どっかと腰を降ろした。 そしてぼそぼそと誰にも聞こえないように細心の注意を払 いながら小声で背面の襖に話しかけた。 「・・・大久保どん。奴はどうだったでごわすか?」 襖が僅かばかりに開くとその奥の間にて控えていた大久保 が応えた。 その部屋は窓一つなく、明かりもないので真っ暗であっ た。漆黒の闇でその部屋の大きさがどれくらいなのかわか らないがかなり手狭である。 「貴奴、なかなかの強者ですね。心の中には別の思案があ るのですが、それを表にするどころかこの鏡にすら映し出 せませんでした。」 幾重にも包まれた鏡を手の平に乗せて覗き込む表情は驚き と冷淡さが混同していた。 そのような表情を浮かべている大久保に対して西郷は至っ て平然としている。 先程まで一対一の真剣勝負をしていたとは思えないくらい である。 「それに・・・私の存在にも気付いていたようですし。な かなか喰えない輩ですな。」 「うむ、じゃけども信用して足る存在でごわすな。そこら 辺がわかっただけでも大きな収穫でごわす。」 片方の膝を立ててそのまま立ち上がるとまた西郷は何処か へ向かおうとした。 そんな西郷が部屋から出ていこうとするところへまた大久 保が声をかけた。 「・・・そういえば先程、間者から入った報告なのです が・・・。」 寺子屋まで駕籠で送ってもらい、ほっとして寺子屋に帰っ てくることが出来た。 西郷との信頼関係を築く上で最大の難関を乗り越え、まだ 完全にとは言えないが一段落つける状況になったのであ る。 帰ったら祝杯と言わんばかりに酒を片手に頑真と酌み交わ そうと思案しながら部屋へ戻ると何やら雰囲気が違ってい た。 上様がなにやら深刻な顔をして腕組みをしながら座ってい るのである。 なにがなんだかわからないまま早速西郷邸での出来事を伝 えた。 「只今戻りました。西郷殿が我らを疑うような事は最早な いと存じます。」 「ご苦労。早速だが急ぎその足で桂邸へと向かってく れ。」 その顔つきから察するに恐らく何か重大な出来事があった のであろうと思われる。 「はっ。・・・して、如何ような用件で?」 「桂殿の許嫁(いいなずけ)が突如姿を消した。」 第七話へ 投稿小説一覧に戻る |