【 A L I C E 】




 其処に一枚の鏡があり、僕は変な躊躇いも抱く事無く、いつものように日常の一片として鏡の
前に座る。此処は僕の部屋、国立大受験用の参考書が机、本棚、至る場所に散りばめられている
僕の部屋。パッとしない高校一年生で、髪の毛は整えられているが長髪で、黒縁眼鏡が不似合い
であった。僕自身言うのも過剰であるが、世間一般で言われる上での真面目君、ガリ勉君である
のかもしれない。現にまだ高校一年生という時期なのに、既に受験勉強という脅迫観念に憑り付
かれているかの如く、参考書に埋まった生活を送っている。そんな僕、香川 龍一郎は参考書に
縛られる前に、深呼吸する時間を備え設ける事にしていた。そしてそれは、束縛されている生活
を見つめ直せる機会でもある。
「まだかな……」
 壁に取り付けられている一枚鏡の前で、僕は学校帰りであるが為に制服のままで座っている。
 呆けたように鏡だけを見つめていて、静かなる苛立ちを些細な呟きに込めた。ふと学習机の
正面にある窓から夕焼けの眩しい光が差し込んでくるのが分かった。あぁそうか、もう夕方で
空を飛び交っていた鳥の群れが巣に戻る時間なのだな、と同時に……「今日は無理かなぁ」と
ポッカリと穴の開いた心底から喪失感が湧き上がる。落ち込んだように俯いたら、夕陽に煌い
て威風堂々としているフローリングが、何だか恨めしく感じた。
「ゴメンなぁ! 今、試合が終わった所!」
 不意打ちのような言葉を喰らい、僕は悪夢から目覚めたように体を跳ねさせる。俯かせてい
た顔を上げれば、僕の望んでいた存在が目の前に広がっていた。……鏡の中に見慣れた笑顔。
「遅い。こっちはもう陽が傾きに傾いているよ。待ちくたびれた」
 鏡の中にいる人物は己自身の像ではなく、別の像が僕を覗き込んでいる。鏡の中にある背景も
今、この時の僕の無稚拙な部屋ではなく、何処かしらのロッカールームであり、像の後ろをまた
別の像が行き交っているのだ。目の前の像は溜息混じりに、にやける。
「いやはや、ヒーローインタビューを受けると、どうしても時間を費やしちゃうからな!」
「まぁ……それがどういった内容だったかは、別に興味は無いね」
 僕が像と呼ぶ、この男性はどのような特色を備えているかは、彼の外観から容易く判断する
ことが可能である。全身を縦縞の野球ユニフォームに包み込み、上着には筆記体で『Tigers』と
書かれたロゴが表記されており、所属チームも判断が出来た。大胆にも髪は茶色く脱色されて
おり、しかしそれは短く整えられている。微塵ながら清楚感すら抱ける彼は、引っ切り無しに
部屋に閉じこもり、参考書と悶絶している僕なんかより、何百万倍も輝いていて、まるで雲に
居座って、見下ろしているかのようである。
「今日もこの後は、勉強すんのか?」
「当たり前じゃないか、“アリス”。僕はトウキョウ大学を目指している高校生。野球仕込みな
体では無いし、きっとこれからもその類に携わるなんてあり得ない……と思うけど」
 彼にはちゃんとした本名があるのだが、僕は敢えて『鏡の国のアリス』にちなんで、鏡の向こ
うに住んでいる像をアリスと呼んでいる。でも、僕がどうして彼を本名とは違う呼称で呼ぶのに
は、もう一つだけ理由があった。

「でもな? “七年後のお前である俺”から言わせて貰うと、お前はこうして……」
「“プロ野球選手になってるんだぞ?”だろ。聞き飽きた。耳にタコとかが出来そうだ」
 ――信じたくなかった。耐え難く、僕の現状からすれば遠く掛け離れた次元だからだ。
 現実世界の龍一郎、十五歳。鏡の中の世界の龍一郎、二十二歳。紛れも無い、細胞も不一致
しない同一人物だというのは、にわかに信じられない。そうした認めたくない感情が、もう一人
の僕に“アリス”と名付ける事で、将来ではプロ野球選手になってしまっている僕自身に、どう
にかして蓋を被せたかったかもしれなかった。
 ――でも、忌々しい感情は……何時しか、何処へやらか羽ばたいて行ってしまった。
「ねぇねぇ、アリス。今日の成績はどうだった?」
「ヘヘーン! 五の五で、ホームラン二本に長短打が三本!」
「……凄いな。そりゃあ、ヒーロー様に選ばれるワケだ」
 僕はアリスに酷いくらいの羨望を向けるようになっている。いつもは無口で無表情で、さらに
他人からは無感情とまで思われている。こんな僕に笑顔を贈ってくれる唯一の存在が、アリス。
「お前はいつもの通りに、ヒキコモリしている奴みたいな顔をしてるけど、表情は俺と同じくら
いに、明るくなったな。……前までは、ホントに絶命しそうな感じだったけどな!」
「ほっとけ!」
 口を開けて大笑いしながら、からかうアリスに僕は口端を上げ、苦笑気味に鏡に答えた。
友達付き合いも下手糞で、学校での授業の合間は喋る相手も居ないので、仕方なく無駄に
分厚い数学の参考書に載っている方式をひたすらに覚えている。孤独という見えない鎖にがんじ
がらめに繋がれて、トウキョウ大学を志しているのも、自らの意思ではなく家業である医院を
継ぐために避けてはならない道だと、惰性的に言い聞かせていた。流れにただ単純に身を任せる
生活を繰り返し、繰り返しの連続で身に嫌気がさした。……その時に、僕の未来像アリスだ。
「へぇぇ、それにしても今は夏の高校野球だから、アウェイ球場巡りだよ。あちこち転々とする
からね、疲れも溜まるし」
 ……とは思ってみても、あっちの世界でも結構大変な時期に入っているらしい。僕とアリスは
拍子淡々に話を続ける。僕の部屋に差し込んでいた射光は消え失せ、陽はいつしか高層ビルとの
狭間に沈んでいた。アリスの背後にも、もうとっくに人の気配は無く、あんなに賑やかに思えた
ロッカールームが実に簡素な空間であるかのように錯覚してしまった。
「ん、今日は五の五も打って万々歳じゃないのかい? タイガースの四番らしくない」
「らしくないな。らしくないけど、俺は眼前に敵投手が立ちはだかる限り、全打席全力で応戦
するまでよ。……そりゃぁ、疲れますってば」
「……神経質なんだよ、アリスは。今日は結果的に凄いスコアだったにせよ、狂い咲きはすぐに
散っちゃう。リラックスしながらで良いんじゃない? なんだぁそのぉ、たまには……指名打者
だっけか? そうしてもらうように、監督に頼んでもスーパールーキー君の君なら……」
「残念でした。セリーグは指名打者制は無いの」
「あ、そっか」
「お前、“ナイター観て、野球の勉強してる”って言ってたじゃないか。全然じゃんじゃん」
「おい、アリス。僕の住んでいる地域のナイター放送は、パリーグと言わなかったか?」
「あ、そっか」
「交流戦は観たけれど、セリーグ同士の試合はなかなか観れなくてな。というより、勉強が大変
だから、野球を観れる機会も……そう無いんだ」
「そう……か」
「いや、でもさ……ね? テレビを観るとしたらナイターにいつも合わせてるよ?」
「……あぁ、うん」

 初めてこの日、アリスは肩をガックリ萎めながら、僕に落ち込み具合を晒した。あんなに生き
生きとしていたアリスだったけれど、やっぱりその辺りは僕と似て、とんでもなく繊細な男。
 どうしても、この時だけは僕とアリスを同一として重ねない訳にはいかなかった。
 強迫観念に押し付けられ、高校生活を満足に楽しめない僕をアリスはその分、楽しませてくれる。
 そして僕も、全力で取り組んだ試合に疲れ果てているアリスを元気付けようと、努力出来る。
 こうしてアリスが変に落ち込めば僕が介抱し、またその逆の場合も勿論ある。お互いに、違う
世界、違う年齢、違う職業だけれど、僕とアリスが香川 龍一郎である共通点を探りあいながら、
毎日対話している。晩飯を食べる時間も忘れて、僕はアリスの存在を必死に手繰り寄せていた。
 でも、手繰り寄せているところで僕が将来には本当に、野球選手になっているという点は、
どうも納得とまではならない。しかし、アリス本人は「俺は確かに、学生時代はよく自室に阿呆
みたいに閉じこもっていた……ような気がする」と言う。裏を返せば、僕みたいに毎日のように
机に向かって方程式を解いていたということである。
「アリス……。アリスが野球に打ち込むキッカケとなったものは何なのさ」
「何度も言わすなよ。気がついたら、一心不乱に白球にしがみ付いていただけだ」
 えぇ何度だって言わせますよ、その曖昧な解答を。はっきりと明確な裏付けが分かるまでは。
「アリスさぁ、君は本当に軽いアルツハイマーじゃないのか? あり得ないだろ。野球をした
キッカケが無いというのは。そんなんじゃ……僕が納得出来ないじゃないか」
 悶々とする蟠りを放る場所が無くて、僕は語尾を弱くしながら、表情を強張らせる。恐怖では
無く、理由も存在しないまま、気が付けばユニフォームを纏っているという未来が嫌だったから。
「ゴメンな。でも、嘘とかでもお前を茶化そうとかでも無くて……俺は本当に何故、野球をして
いるのか……知らないんだ。……それでいて、怖いんだ!」

 そして彼は僕とは違い、語尾を強くし八重歯を見せながら、快活に笑ってみせた。
 怖いと言ったのに、其処に怖さなんて点在していないかのように、彼は僕を困らせるように
笑ってみせる。しかし彼は、その後も及んで「怖い、怖い」と繰り返しながらも、彼は明るかった。
 僕が不愉快に、顔に皺を寄せながら膨れ上がっていると、アリスは途端に、笑うのを止めた。
「懐かしいな。俺も、お前みたいに学校で習うモンしか置いてなかった部屋にいて、鏡に向かって
ブツブツと念を唱えていたっけ」
 アリスは少し後に引き、天を仰いだ。僕は“はっきり”とした悪寒を覚えた。
「えっ……? 鏡に向かっていたって……」
 意識が飛んでいきそうなくらいの呆けた呟きをみせると、彼は変に照れ笑いをした。
「いやホントに。分かんないけれど、俺とお前の学生生活って共通点アリアリなんだな。まぁ、
俺も今みたく、コンタクトや短髪じゃなくてお前のように……!!!」
 笑顔から突然、彼の顔が凍てつく。眠たそうに双眸を細めながら、腕でユニフォームの胸の
辺りを思い切り、痛そうに掴んでいる。僕も一瞬、自分の勘の力を恨んだ。きっと彼も、自分の
発言から、自分を恨んでいるだろう。それは、僕とアリスが気が付きたくても、気が付きたく
なかった結論なのだから。
「そういえば……俺はあまり学生時代の記憶が無い。否、薄れてしまったとでも言えるかな。
ただ、俺は学校からの帰り道、何か……鏡の話を友達としていて、何か……その友達に笑われて
たような気がする。ハハッ、鏡のことなのに……」
「アリス……」
 薄れてしまった、のではない。それは彼自身が必死に薄れさせてしまった記憶なのではないか。
 アリスという男が、どうしてプロ野球生活を送る運びに至ったのかも、彼が勝手に薄れさせ、
終いには打ち消してしまった記憶なのかもしれない。だから、その忘れた記憶が「怖い」と断言
出来る。でもその記憶の形が分からないので、アリスは笑って笑って、想い出そうとする衝動
さえも打ち消していた……のかもしれない。
「僕は、よく友達と君の話をするんだ。“鏡の国のアリスはいる”ってね。勿論、話した奴等には
全く信用して貰えなかったけどな。……それくらい、君との時間が大好きだから……ついつい人に
話さなきゃ気が済まなかったんだ」
 途方に暮れるアリスを目覚めさせるように言う自分なのに、恥ずかしくなって部屋のカーテン越し
に映る白い満月をまじまじと眺める。都会だから、星は見えないけど月だけはやけに明るかった。
 アリスはこの月のようである。月が満ち欠けをするように、アリスの記憶と心は複雑に、紐解こう
としても解けないくらいの苛立たしいくらい、起伏を繰り返して来たに違いない。それでも彼は、
僕をほのかな光で照らしてくれる。……悲しくて、悲しくて、どんなに辛い時でも。

「俺は……、俺もアリスを……見ていたんだな。そうか、そうだよな」
「っ……」
「理由なんて無い。……俺も、アリスに出会ったから野球というものを知って、何時しか野球の世界
に入った。やっぱりその時見合った“俺のアリス”が、嫌に格好良かったんだな。……だよなぁ」
 もどかしげにアリスは半ば暑そうな顔をしながら、ユニフォームの上着を徐に脱いだ。紺色の
アンダーシャツ姿になった彼は、より一層の涼しさを取り戻そうと深呼吸をするも、尋常では
無い焦燥は消え失せてはくれない。腰を下ろすだけの簡易な水色ベンチに座り、弱く息を吐き、
背を曲げながら顔を両手で覆う。僕は息を呑み込みながらも、益々硝子の世界に浸透していく。
「アリス……」
 もう一度だけ、親友の名前を呼ぶ。
「ククククククッ……、アハハハハハハハハハハ!!」
 突然、堰を切ったようにアリスは誰も居ないロッカールームに、甲高い笑い声を反響させた。
 己から湧き出す笑いの根源を抑えようとも、それが出来ず膝をパンパンと平手で叩く。気が保て
ず、とうとう発狂してしまったのかと僕は刹那、体を半身分程に鏡からずらした。が、顔を上げた
アリスの表情はとんでもないくらいに穏和で気品のある笑顔、いつも僕に見せてくれる無垢の笑顔。
 安心して、体を半身分程に鏡に近づけた。僕も誘われるように、引き笑いをしてみる。
 やっぱりアリスは、ほのかな光のように僕を照らし、何だかんだで僕とは対照的だった。
「ムフフフフッ……って、何が可笑しいのか、ちっとも分からないや」
「ん? いやいや、考えてみりゃお前みたいなガリ勉ちゃんが、七年後には俺みたくなってるの
だなと思うと。そんで、俺も七年前はお前みたいなガリ勉ちゃんだったんだと改めて思うと」
「うるさいですよ。あぁ、どうせワタクシは容姿になぞ気を使ってませんからね」
 僕は鏡に顔をくっつけるように近づけると、涼しそうなアリスに負け文句をふてぶてしく吐く。
 ヘラヘラと身を跳ねさせながら笑う、この時のアリスは癇に障る! あぁ、殴ってみたいよ。
「改めて、こんばんは。七年前の俺」
 行き成り、行儀深く頭を下げるアリスに、僕は「似合わないなぁ」と苦笑しながらも、僕も
いそいそしく正座をし、鏡の国のアリスに挨拶をする。
「改めて、こんばんは。七年後の僕」
「これからも宜しくお願いします。七年前の俺」
「これからも宜しくお願いします。七年後の僕」
「これからも月日の許す限り、親友ですか? 七年前の俺」
「……これからも……親友だよ、アリス! ……野球、教えてください。七年後の僕」

 “野球、教えてください”なんて言葉が、僕の発言と化すなんて夢にも思ってなかった。
 僕がお辞儀をし終え、顔を上げれば下唇を噛んでいるアリスがいる。「泣いてたまるか」と
いう彼の姿勢が、逆にむず痒いほど純朴に見えてきた。彼は“七年前の自分の忘れていた過去”
を取り戻し、僕はというと……“七年後の僕”の姿、鏡であろうとその立派な未来像に想いを
馳せる。……そして、僕らは心を緩めてヘンテコで“時間の無い一時”を堪能する。

 七年後の僕、七年後の君よ。僕が見事、野球選手になったらアリスの立場になって、また僕自身
の七年前を振り返る時が来るのだろうか。殻に閉じ篭っている僕を、傍観するのだろうか。

「あぁ、野球なんて簡単だ。お前を一週間でホームランバッターにしてやる!」
「無理」
「だぁぁぁ!! ……うん、無理だな。じゃあアベレージヒッターにしてやる!」
「アリスって、適当だね。大雑把、ざっくばらん、無鉄砲……」
「ナハハッ!」
 僕は、とりあえず七年後のことは考えないでおこう。今こうして、目の前にはアリスがいて、
適当だけれど繊細な彼に、野球を教わる。それ以上の僕自身への期待はやめておこう。
 もう何も考えない、躊躇わない。踏み止まらない。アリスの存在に惑わされず、受け入れて
進んでいく。アリスは、「アリスの存在」を怖いものと見なし、それに流されていきプロ野球
選手になった。でも、僕は違う。間違いなく、アリスの存在は僕の理想。生き生きしていて、
いつも神経を苛立たせている僕と比べ全く前向きな気持ちで、人生を歩んでいた。

 嬉しかった。……実はというと、七年後の自分がアリスのようになっているのが。
 しかし、この鏡に映されるアリスという像が実像であろうと虚像であろうと、将来はトウキョ
ウ大学に進学する僕の気持ちは、多分変わらないだろう。……でも、その過程で色々な行き違い
が交錯して、何万歩踏み外しても叶うはずの無いプロ野球選手になったとしたら、僕は快くその
責務を負おう。「あぁ! こんなのって本当に有りなのか!」と笑って引き受けようと思う。

 ……僕はやっぱり、“鏡の国のアリス”が好きで、彼のようになりたいと願っているから。

「そんじゃま、明日から何を始めようかね? 未来のスーパールーキー君」
 はにかみ綻ばせた顔で僕に笑いかける。僕は“明日”という言葉に引っ掛かってふと、学習机
の正面の壁紙に掲げている掛け時計に目を配った。……成る程、確かに針は夜の八時を示そうと
している。でも、僕は敢えてアリスに訴える。
「いいや、アリス。……今からでも、僕は野球を学べるよ」
「へっ?」
 アリスは目を丸くし、素っ頓狂な反応だ。失笑しながら、首を軽く傾げる。
「まずはアリスが、どのように野球選手になったのか。知りたいね!」
「ほほぅ、貴様ぁ……。なかなか、いい度胸してんジャン♪」
 僕が睨むようにアリスを見据えれば、当方もドスの利いた声色と僕と同じ蒼色の双眸を尖らせ
僕を睨み返した。が、すぐに雪崩のように表情を崩し、憎みきれない笑顔のアリス。だいぶ、
篭っていた熱が引いたのか、アリスはまたユニフォームの上着を着なおす。と同時に、背後に
ある壁時計が気になり、おのずと半身で振り返っていた。
「あは、もうこんな時間か」
 僕に背中を見せながら、軽く流すように独り言を言ってみせる。あっちも夜、こっちも夜。
 晩飯時はすっかり過去に追いやられ、勉強をする時間もそれと共に追いやられてしまった。
「今からか。そうか、夜中なのに“今から”とお前は言うんだな」
 全てが洗いざらいにされ、残ったものは鏡と鏡を結ぶ僕とアリスの間に出来た静寂である。
「出来るかな、出来るよね? “今から”でも、きっと」
 アリスは、何気ない笑顔で……何気なく立ち上がり、鏡に触れる。其処にはユニフォームを
しっかりと着こなしている理想像が誇り高く、フローリングの床に座っている僕を見下ろす。
 僕の部屋の鏡でもありアリスの鏡でもあるそれに、アリスはただただ掌でなぞるように、撫で
回している。口が痺れているのか、それとも何か躊躇しているのか、彼の口は中途半端に開き、
 且つ瞳を閉じて、一瞬己の暗闇に引っ込んだ。アリスはその状態で、僕に語りかける。

「……出来るさ。“今から”でも。お前は、お前は……アリスになれるよ」

 ――その時。

「僕が、アリスか。……ははっ、なれるものなら……なってもいいかな」

 ――僕ともう一人の僕とを隔てていた一枚の鏡は、無くなったと思うよ。
 参考書の散らばった部屋の片隅で、僕は夜が急激に更けていくのを全体に感じる。
 何だか、ひ弱で軽々しい体がフワリと浮かんで空中を泳いでいるように。僕は“アリスになる”
夢をゆっくりと思い浮かべる。目の前で絶えず笑っている彼に、生意気に僕自身を重ねてしまった。
 アリスの耳の小さなピアスが、彼の笑い声の振動で揺らめくのを陽炎と錯覚しながら。
「僕は、アリスです。僕は君で、君は僕」
 嫉妬しながら、自分を無理矢理アリスだと言い張ってみた。否定は何時しか肯定に変わる。
「お前は、アリスです。俺はお前で、お前は俺」
 彼は一人称を替えながら、復唱した。愚図つく事無く、何故か僕の言葉を復唱する。
 そうだ、だって君は“鏡の国のアリス”。鏡の中の君は……確かに、僕自身でした。
「僕はアリス!」
「俺はアリス!」

 散らばっている混沌とした部屋の中で、英語の長文の参考書が、僕の尻に敷かれている。
 アリスに笑いかけながら、それを気にしたけれど、僕はわざとページに皺を寄せていた。




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