あれから、幾ばくもの流れに身を任せ、僕は七年後を迎えていた。あの時のアリスのように、 記憶をねじ伏せず、その想い出をしっかりと胸の内に秘めながら。あの時、あの一瞬一瞬の会話 を忘れずに、脳内で箇条書きされている。箇条書きの内容を思い返しながら、僕は鏡の前に立つ。 立っていると、帰り際のチームメイトの友人等に声を掛けられ掛け返し、ロッカールームの扉 から出ていくのを見送り続けた。明日は試合無しという事だけあって、皆早々と身の回りの荷物 を整頓すると、さっさと休養するためにホテルに戻っていく。僕は、楽しみである行きつけの 居酒屋での一杯を楽しむ為に、帰りの仕度を始める。仕度をしながらも、僕は鏡を見つめていた。 汗臭いロッカールームの片隅、やや埃が浮いている鏡。壁に掲げられているその様は、まるで 僕の居た部屋の鏡の状態にそっくりだった。それを見つめながら、ロッカールームの真ん中に突っ 立っていると、突然誰かが肩にスポーツバッグを提げながら軽く僕の肩を、小突く。更けていた 思いを募らせていた僕は、酷く敏感に驚き、小突かれた部分を掌で押さえて跳ね上がってしまった。 「おい、どうした夢遊病者の今日のヒーロー君。まだなが〜い余韻に浸ってんのか? ん?」 タオルを頭に巻いている打撃コーチが、ふいにそう言いながら肩を揉む。チームも連勝の波に 上手く乗っており、コーチ陣も行け行けムードで実に明るい。そんな波起こしに僕もルーキー ながら貢献していた。五打数五安打、二本塁打六打点。要所要所のチャンスで打順が回り、それ に僕が自らのバッドで応えて魅せた今日のデイゲーム。……本当に清々しい。 「余韻……。そうかもしれませんね。今日の僕の姿を肴にしながら一杯飲むってのもアリですね」 「ムカツク野郎だなぁ! よし畜生、俺もその一杯に付き合せてくれねぇか?」 ガツンと喰い付くように肩を組み、コーチは片手で酒を飲むジェスチャーをする。 「勿論、喜んで! ……では、僕はまだ帰りの仕度をしてないんで、外で待っていて下さい」 “早くしろ、待ってるぞ”と言葉を残し、コーチは勢い良くドアから飛び出ていった。 そして誰も居なくなった空間と、其処に佇む僕が居る。僕だけの空間で、息を吸い込む。 結局僕は、アリスの言う通り野球選手になっていた。トウキョウ大学を受験予定だったけれど、 やはり僕自身から、アリスになる夢を忘れられなくて、大学野球の強豪である大学に進学した。 トウキョウ大学を目指していたのだから、受験は余裕で合格したが、やはり嬉しくなってしま い、家に帰るや否やアリスに報告した。アリスは「当然だ」と自分のように鼻を高くしていた。 かえって、アリスの隠れ見えていた祝福にまた……嬉しくなってしまい、僕は……野球に打ち 込んだ。野球をしていれば、馬鹿みたいに素人が約四年でプロ入りを目指し、馬鹿みたいに白球に 夢を託す姿をしていれば、きっとまたアリスに、頂点に近づける。……僕は呆気なく、力をつけて 呆気なく、スカウトの目に留まり、本当に呆気なく、たった四年間でプロ入りしてしまった。 アリスになる予定の男だったのだから、プロ入りは余裕で成し遂げたが、やはり嬉しくなって しまい、家に帰るや否やアリスに報告しようとした。いつもの僕の部屋で、いつもの鏡の前で。 でも、アリスはとうとう現れる事は無かった。 その日を境に一切、僕の前には現れなかった。 ――間もなく、アリスの居ない僕の部屋の鏡は埃が目立つようになった。順調に寂れていった。 少なくとも、えげつない喪失感を抱きながら、そして苛立ちながら、毎日素振りをしていた。 でも自分の分身像であるアリスに対して、徐々にではあるが反抗をするようになった。しかし それは、外見的なものに過ぎず結局、内面という本質だけは変えずに、僕は着実に目標へと上って 行った。……短髪で脱色していたアリスの髪型、耳に開けていたピアスとか、ビジュアル的な姿 ではなく、髪は肩に触るくらいまでに伸ばしている脱色皆無の黒髪、穴の開いていない耳。やは りどうしても、内面部を変える自信はさらさら無く、外見だけでアリスに歯向かっている。 極端に済ませば、七年前の僕がそのまま七年後を迎えてしまった……だけかもしれない。 『どうだ、アリス。これが僕の七年後だよ? 姿が全然君とは大違いさ』 ……なんて、心の中で高笑いしている自分が情けなかった。僕はアリスの存在は拭い去れない。 そして僕はアリスの存在を意識するたびに、僕は想う。ルームの鏡にコツンと拳を宛がいながら。 「僕は、どうだろうか……。君の願っていたアリスに、なったのだろうか。僕は不安で仕方が 無いんだ。時々、夜が眠れない。どうしてくれるんだ、君が僕の部屋の鏡に現れなければ……」 ――僕は、思い悩まされなかったのに。馬鹿みたいに野球なんかしなかったのに。 そう言おうとした独り言を、僕は不甲斐なく感じて途中で停止させる。体を傾けさせ、鏡に 凭れさせている左腕に顔を突っ伏す。鏡に身を委ねながら、一人だけの嗚咽を響かせる。 「助けてよ、アリス!! 僕は何を見据えればいい?」 唯一、外見でアリスを見習って着眼させたコンタクトレンズも、潤んでいる涙腺に流されるよ うにずれてしまいそうだ。……それから暫く、僕は葛藤で朽ちた体を癒すように、疲労の涙を コンクリートの床に落としては、滲ませていった。誰も居ない世界で、苦しく佇みながら。 そんな蹲っていても、戻れないというのは知っているけれど、がむしゃらに進んできた今まで の足跡を振り返ってみる、何度も何度も。それでも足元は前へ前へと、突き進んでいる。 その道すがら、多分……アリスが後ろから倒れそうな僕を押して押して、励ましてくれて。 僕を押し続けて疲れてしまったアリスを、今度は僕が励ましながら「代わってあげようか」と 言えば、すかさず「進むのはお前なんだ……」と呟きながら、また僕の体を押してくれた日々。 素晴らしい日々、その日々を其処にある鏡を、宛がう拳に力を託しながら粉々に打ち砕いて しまいたい。僕は、体をアリスに押されたまま……この長い長い旅路で得たものは、ただただ それまでの道のりを消費していただけかもしれないから。ただ消費する僕に、何も考えていな かった僕に、アリスは嫌気がして消えていってしまったかもしれなかったから。でも、 「やっぱり、割れないな」 縦縞のユニフォームの袖を捲くりながら、鏡から離れるように後ずさりしていた。 その“最終手段”は良心が仲介に入ってくれて、僕は頭をクシャリと一掻きしながらも、何と か理性を保つ事が出来た。僕は震える体を落ち着かせるように、ロッカーの隣りに立て掛けられ ているパイプ椅子を一脚引っ張り出すと脚を広げて、パイプの金属音を響かせながら、座る。 わざと、鏡とは逆向きで、そっぽを向くように、しかしその態度とは裏腹に胸が軋んでいる。 ――……君は、誰? 腑抜けになっていたら、何処からか掠めるような声がした。 そっぽを向かせている鏡からだ。僕は一気に高揚しながら、パイプ椅子を弾みで倒してしまう。 それでも立ち上がり、鏡との視線を合わせる。刹那、アリスがひょっこりと戻ってきたのではない かと、期待感を寄せていた。でも鏡を覗いた瞬間、僕は死んだように絶句し、体中が痺れた。 「あれ、僕は夢でも見ているのか? 鏡を覗いたら、知らない人が映っている夢?」 鏡の中の像が、苦笑しながら首を傾げている。 「…………あぁ、そういうことかアリス」 耳を澄まさなければ聴こえない程度のポツリ声を発しながら、指先で目尻の涙を跳ねさせる。 アリスの意志は、いつの間にか引き継がれていた。其処には……忘れる訳も無い、十五の僕 が、高校の制服を着込んだまま胡座をかいて座っている。何処か見慣れていた、参考書の散ら ばった部屋に僕が居る。うん……勉強ばっかやっていて、それでいてスポーツに対しては初心な 奴が其処に居る。何も、何も知らなかったあの時の僕が居る。 これがアリスの答えなのか、と思うと今の今まで思い悩んでいた僕が、ちょっぴり恥ずかしい。 それでも、僕は天を悲しげに仰いでみせた。残念だけど、天井には白色の蛍光灯しか、自分 を照らしてくれるものはなかったけれど。僕は、アリスをほくそ笑みながら恨む。手に出来た 痣や潰れた豆、それらを巻きつけている包帯を掲げながら、光に照らし合わせながら。 ――君は、本当にいい加減だった。もうちょっと、早く教えてくれれば良かったのにな。 『……ごめんな。でも、それが原因でお前にもっと苦痛を与えたくなかったんだ』 ――馬鹿野郎。その“原因”を、僕は求めていたのにな。 痛々しく、愚かしく、今更だけど、“自問自答”してしまう。僕という存在は唯一無二の存在 なのに、僕は僕に憧れていた。鏡の中に映し出されている姿は、形が異なるにせよ、紛れも無い 自分なのだ。僕はたまたま、アリスに出会った。ソイツは雲の遥か上の存在だと思っていたのに、 ソイツは自分を転写しただけの像。……だから、アリスは消えてない。きっと今でも僕の中で 無邪気で呑気に秘められている。早とちりかもしれないけれど、アリスは輪廻する。僕という “龍一郎”という人間が居る限り、アリスは輪廻し続けるだろう。 「何? 何? 何でも良いから答えてよ。……君は、本当に一体誰なんだ」 鏡の中が喋ってくる。眉を狭める彼の表情が滑稽に見えて、プッと噴出してしまう。 彼はバツが悪そうに「何なんだよ」と赤くなりながらも、僕の回答を待っている。 こんなに積極的だったかな、なんて回顧しつつ、今度は「僕が彼を押してあげる番だ」と妙な 意気込みを持つようになる。 僕は、鏡の前で畏まって姿勢を整える。アリスの堂々たる姿に倣い、自信を確信し、胸を張る。 「僕は……、僕はそうだな、君の好きなように呼べば良いよ。僕は決めたようにするから」 彼に初めて柔らかく口を開いた。したらば、弾けるように興奮しているような彼は迷う。 「えぇ〜っと、えぇ〜っと……分かんないから、また決める事にしても?」 「……うん、いいとも」 その日から、また奇妙な対話が始まる事となる。僕は覚悟を決めた。 鏡の中の僕が、僕自信を“アリス”と呼ぶのはもう遠くは無いだろう。 鏡の中の僕が、アリスという存在に苦悩するのも、遠くは無いだろう。 彼が嬉しそうに、ニヤニヤにやけているのを傍観しながら、ゆっくりと鏡を撫でる。 胸が苦しくて、また泣き出してしまいそうだけれど、笑いながら堪えて……。 かつて誰かさんに、体を押してくれて導いてくれたように、僕も彼の体を押してあげよう。 長くて辛いうねり道を、互いに鼓舞し合い、進もう。 だって僕は、僕は……。 僕は、アリス。 (了) 小説部屋に戻る |