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 乳白色の靄の中で



  目が覚めた。だが周りの様子は一変していた。
 確かに昨晩いつものように自分の部屋で少々体の大きさと釣り合わないベッドに入り、布団の中に潜り込んで、ヒツジを数えて眠った。
 だが眠りの時間から開放されてみるとその場所は確かに自分の部屋ではなかった。
 服装は眠ったときと同じ。しかしベッドもなければ枕もない。自分の体だけ異空間に強制ワープさせられたように。
 上も下も前後左右も360度乳白色な霧に包まれている。そして不気味なくらい静かで耳がおかしくなりそう。さらに神経は通じているのに何故か感覚が鈍っているようにも思える。
 さらにおかしいのは自分の体が宙に浮いているのだ。常識的にも考えられないのだがふわふわとした感覚で尚且つ足が地面についていないのだからそう思うしか他に考えられない。
 果たして一体此処は何処なのだろうか?自分の心の中も頭の中も探してみたけれど全く見当がつかない。
 ふよふよとした感覚は心地いいようで気持ちが悪い。まるで無重力空間にいるみたいだ。
   ―――まさか、ここは宇宙?・・・・・
 ふとそんな考えが浮かんだが、そんなはずがないとすぐさま否定した。
 夢か。夢なのか。そんな衝動に駆られて頬を抓(つね)ってみたが痛い。狐につままれたわけでもないようだ。
 だがじっとしているのも耐えられない。此処が何処かわからないまま出口を探してみることにした。見つかるかどうかもわからないまま。
 移動するにも重力がないので歩けないし、乗り物もない。水の中にいると思って器用に泳ぐしかなかった。

 どこまで行っても乳白色の霧から逃れられることはなかった。ずーっと同じ光景が続くばっかりで変化が何一つ感じられない。
 本当に何がなんだかわからない。まるで砂漠の中を彷徨っているような錯覚を覚えた。
 さらに慣れていない無重力の感覚に気分が悪くなってきた。車酔いみたいな感じで妙に吐き気がする。
 上も下もわからない。くるくると回転しても目の前に広がっている景色は変わらない。かと言ってもじっとしていても治まるわけがない。
 どうにもできなかった。どうしようもできなかった。

 暫く泳いでいると靄の中に人の姿が見えた。人の姿を見た瞬間、なんとも言えない安心感が芽生えた。
 近づいてみると不思議なことに相手は逆さまになって本を読んでいた。
 その光景に戸惑いつつもある一つのことを思い出した。
   ―――あぁ、この世界は重力がないんだった。だからこの人が逆さまになっているのも別に不思議なことじゃないんだ。
 彼の周りにふよふよと浮いているティーカップも、ポットも何ら変わったことはない。一度わかってしまうと特に不思議に思えなくなった。
 髪の毛は白色で瞳は緋色。どちらかと言うと色白な肌。びしっと上下共に黒のスーツを着こなしている。
 その大きな瞳は実に穏やかで何人も受け入れてくれる、そんな感じであった。
 瞳だけではない。初対面でありながら気軽に話せるオーラが前面に出ていた。
 すると相手もこちらに気付いて本に栞(しおり)を挿むと何の躊躇いもなく近づいてきた。
 「やぁ、こんにちは。」
 相手の澄んでいる声を発した。心の底に響くような、そんな声で。
 「・・・・・……?」
 ここで自分の体の異変に気がついた。声が出ないのだ。
 確かに私は『こんにちは』と喉が音を発し、口から出ていって、耳が音を捉えたはずだった。だけど全てが無になっていた。
 相手の声は確かに耳に聞こえた。だけど自分の声は何故か出て行かないのだ。
 そんな状態に異常なくらいの不安を覚えた。これまでなんら疑問を思うことなくできたことが急に出来なくなれば当然パニックに陥るであろう。
 何がなんだかわからず困惑している自分に対して相手は不思議そうな顔をしている。首を傾げてさらに話かけてきた。
 「あぁ、言葉が話せないのね。僕は君の心に話しかけているから聞こえていると思うけれどね。」
 なにがなんだかわからなかった。でも相手はわかりきったかのような表情でその澄みきった声で落ち着かせようとしている。まるで子供を諭しているかのように。
 そして少しだけわかったこともあった。
 彼は長い時間ここにいるみたいで、この空間に慣れているみたいである。その空間が自分のテリトリーのように言うならば空気と同化しているようにも思えた。
 だから何の違和感も感じず、相手のパニックにも動じるどころか自分のことのようにアドバイスをする。
 「自己紹介がまだだったね。僕の名前はラク。この世界の住人さ。」
 そして自己紹介をしようとしたが、先程と同様に声が出ない。言っているはず、なのだが。
 するとラクは胸の辺りを見つめて何かを察したような顔をした。
 「うん、わかった。この世界はどこなのか、そしてどうして君がここにいるのか聞きたいのね。」
 まるで心を見透かされているような気持ちになった。自分の思っていることが相手に伝わってしまうのである。
 読唇術を使ったとしても今口に出したのは自分の名前くらいしか言っていない。その先に聞きたいことまで相手に伝わるわけもない。
 音を聞かなくても唇の動きだけで相手の発音がわかる、それが読唇術なのだが相手の気まで読み取ることはできない。
 嫌な汗が体から噴き出してきた。話せないこの状況でラクと会話できるのは嬉しいのだが、隠し事や聞かれたくないことまで相手に伝わってしまう。なんともいえない悪寒が体を走る。
 なれない無重力のような感じに加えて全てを見透かされている状況。不安は余計に募る一方だ。
 そんな不安を解消しようとラクはニッコリ笑顔を見せた。
 「心配しないで。僕は君を捕って食べようなんてことも思っていないし、君をおちょくる気持ちも微塵にないのだから。」
 指をパチンと鳴らすと突然目の前に丸いテーブルが現れた。
 それだけではない。自分の後ろには欧風の椅子がいつの間にかあり、同じ椅子がラクの方にもあったのだ。
 「ゆっくり座って話をしよう。とりあえずお茶でも飲んで気持ちを安らかにして。」
 言われるがままに座ってみたものの、普段座っている椅子と当然ながら少し感触が違う。腰を下ろしてもなんだか落ち着かないのだ。
 ラクは浮いていたティーポットから綺麗に縁取られたティーカップにお茶を注いでいく。一筋の糸になったお茶からはラベンダーのような香りが漂ってくる。
 ヨーロッパ調で統一された椅子やテーブル、それにお茶の一式。まるでヨーロッパの昼下がりのティータイムであるかのような錯覚を感じた。
 お茶にはカフェインという成分が含まれていて興奮を促すと言われている。だが、実際にはその反対の性質を持っているように思える。
 それにはお茶を飲むことで、ということではなくその過程や状況で人は落ち着くのである。雑談したり、景色を堪能したり、ゆっくりと時の流れを感じたりして心を落ち着かせるのである。
 差し出されたお茶を一口飲んでみるとラベンダーの香りが口の中や喉いっぱいに広がった。
 なんだかほんの少しだけ気持ちが安らいだように思った。
 「なんで君はこの世界にいるのかな?」
 ラクが質問してきた。が、その質問に答えられるはずがなかった。
 自分でも何故ここに来たのかわからないくらいである。思い当たる節もない。大体このような場所に来た覚えすらない。
   ―――わかんないよ、そんなこと……。気付いたらいつの間にかここにいたのだから。
 言葉に出なくても顔に出ていた。それを見てラクは質問を変えた。
 「じゃあ、君はまだやりたいことはある?」
 『やりたいこと』と言われても沢山ありすぎた。ほんの些細なことから重要なことまで頭に浮かんでは消えていった。
 それは全て『やらねばならない』ことではない。やってみたいこと、やりたいこと、全部が自分の意志を含んでいる。
 とてもじゃないが一つに絞ることは到底できなかった。
   ―――色々あるけれど決められないな。できることなら全部やってみたいけれどそれは流石に無理だし……。
 そして唇が動いた。聞こえないと分かっていても無意識に口が開いたのであろう。
 「やりたいことは沢山あって、言い切れない。」と。
 それを聞いたラクは驚いた顔をした。しかしすぐに平静を取り戻してまた指を一回鳴らした。
 すると自分の体がどんどんと下の方から消えていくではないか。まるで砂の像が風に身を任せて散っていくように。
 突然の出来事だったので動揺した。自分の体が消えるなんて有り得ないことだし、消えてしまったら一体どうなるのだろうか。それを考えた時から強烈な不安に襲われた。
 だが、止めようにもどうすることもできない。ただ体が消えゆくのを待つのみであった。
 そんな戸惑い狼狽える私にラクは言葉をかけてきた。
 「大丈夫。君はこの世界にいるべき存在ではないから。」
 だが私にはラクの言葉を理解することができなかった。むしろ不安を駆り立てるだけだった。
 そしてそのまま私の体は髪の毛一本残ることなく消え失せてしまった。



 次に瞼を開けた時には自分の部屋に戻っていた。
 見回すと見慣れた景色が見える。そんな有り触れた光景に何故か知らず知らずの内に安心感を覚えていた。
 窓を覆っているカーテンを開けてみると既に太陽は東の空から明けていた。堰を切ったように眩しい光が窓の外から降り注がれる。
 そして一つの疑問も生じた。
   ―――なんだったんだろう?あの世界は。
 夢の話と片付けるには不可能であろう。あまりにも現実離れしすぎた環境をこの体で体験してきたのだから夢ではない。
 しかしこれが現実かと思うとそれも否定される。他人にこの話をしても到底信じてもらえないに違いない。
 この話は自分の心の中にだけ閉まっておくことにした。その方が懸命だし、余計な心配もしないであろう。
 だけど、未だにその世界が何だったのか答えが見つかっていない。



 一方、取り残されたラクの方はどうなっているのか。
 彼はカップに入っているラベンダーティーを口にして、何事もなかったかのように再び栞を挟んであった本を読み始めた。
 だがその顔にはまだ驚きと疑問の表情が微かに残っていた。
 (彼はなんでここにいたのだろう?やりたいことがあるのに。)
 縦に半回転して逆さまの態勢になって考えてみるが一向に答えが浮かばない。
 彼が推考するときは逆さまになるのが癖なのだ。そうすれば自然と頭が冴えてくるらしいが定かではない。
 考えれば考えるほどわからなくなってきた。例えるならば出口のない迷路に迷い込んだような感じである。
 気になって本に集中できず、終いにはまた本を閉じて考え込むほどにまでなった。
 2時間ほどじっくり考えたが結局答えを出すことを放棄してしまった。
 (まぁ良いや。どうせ彼も再びここに来るのだから……。)
 「おーい、エンマ。人手が足りないから手伝ってくれ〜。」
 遠くの方から彼を呼ぶ声がした。
 彼の本当の名前はラクではなく“エンマ”。この世界の住人で博識高く、物静かである。
 そして彼は声のした方向へ泳いでいき、乳白色の靄の中へと消えていったのだった。




 これが夢の話か、現実の話か、幻の話か。それは誰も知らない……。




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