ある日突然お登勢が夜出歩くのを控えるように我々に伝えてきたのだ。
その顔色は一面蒼白で安心できないみたいだった。
しかしお登勢の忠告を耳にも留めず頑真は豪快に笑い飛ばした。
「お登勢、如何した。我らなれば心配無用だ。帯刀しているなれば武士と判別できる。町人狙いの野党ならば刀を帯びている輩を襲うなどあるまい。」
私が念押しを込めてお登勢に伝えるとさらにお登勢は続けた。
「それがですね。厄介なのは此処からでしてねん。なんでもお武家はんだけ狙っているようでして夜な夜な都の街に出没してはお武家はんの太刀を奪うんです。先日なんて三人がかりで倒そうとしたお武家さんが返り討ちにされましてお一方は右腕が麻痺してしまったそうな・・・。」
その話に一瞬にして場の雰囲気が凍りついてしまった。

お登勢が下がっても凍った空気はなかなか溶けなかった。
しばらくして何を思ってか上様が(お龍。)と独り言のような声で囁いた。
直後(此処に。)と天井裏でお龍が返事した声が微かに耳に入った。だがその声は主以外の者に聞こえないような大きさで風の音一つで掻き消されるやもしれないくらいである。
(今女将が話していた事情を全て調べてこい。それと夜な夜な襲っている者の素性も出来れば。)
(心得ました。明日までには・・・。)
そう言うと天井裏にあったお龍の気配は瞬く間に消えてしまった。物音一つ立てず、いとも簡単に。
それでこそ一流の忍び、いや忍びの道に生きる者ならば必要不可欠であろう。
「さて、既に賽は振られたのだ。お龍の報告がどのようなモノか想像できないが、恐らく私が思うに良い事ではないだろう・・・。」
この上様の直感は常人を遙かに凌駕しているモノである。我々にとって普通に見えないことでも上様には先の先まで読めるのであった。
上様を先導に我々臣下はただついていくのみ。例え間違った道であろうと突き進むしか道はない。
だがもしも誤った道に踏み入れそうになった時は命を張ってもその道から上様を出さなければならない。この国の舵取りの少しでも間違った方向に船を進めた場合、船は別の方向に進んでしまい大変なことになってしまう。
近くをみていては過ちに気付くのが遅れる。逆に遠くを見続けているといち早く過ちに気付くことができる。
その為この国を背負う舵取り役には“未来”という全く見えないモノをいち早く察知する能力が必要不可欠なのである。


翌日の晩。夕餉が終わると上様は私を将棋に誘ってきた。
碁盤を取りだして早速一局打っているとお龍が情報を集めて戻ってきた。いや、いつの間にかその場にいたと言った方が正しいか。
「只今」と一言お龍は言うと早速傍らに持っていた大きな藁半紙(わらばんし)を広げて説明し始めた。
「寺子屋の女将が言っていた事は真実です。確かに武士ばかり狙っている刺客がいると。町人の話によると格好から恐らく法師かと思われまする。」
法師、という言葉に反応して一斉に頑真の方を向いたが姿格好から到底仏に仕える身に見えないのであっさりと疑念は晴れた。
それはそうだ。お経を読んでいる者とは思えないくらい筋肉質で体格も大きく、召している着物もどちらかというと町人が着ているモノに近い。
肉こそ食べないが、魚は食べる。殺生を(一応)嫌うが喧嘩は大好き。女遊びもそこそこ。さらに数珠をしていても数珠とは見えず装飾品(現在でいうアクセサリー)ととられても遜色ない。
さらにお龍の口は動いた。
「相手の得物は薙刀(なぎなた)で他に武器は身につけていないと思われます。だが纏っている鎧は相当頑丈らしく敵からの攻撃を一切受け付けないそうです。」
「して、その法師が夜な夜な武士を襲う目的は?」
「それが生憎わかりませぬ・・・。一応襲われた武士の身元を探ってみたのだが共通する箇所が見当たらないのです。更に法師が仇と思うほど恨みを買っている輩もいませんでした。素性もわからないので無闇に成敗するのは得策ではないかと・・・。」
この報告に上様は黙って腕組みをして考え込むしかなかった。
わかっているのは相手の得物くらい。こんな情報不足の状態で相手に向かっていくことはあまりにも無謀極まりない。
「だがこのまま野放しにしていると面目が立たない。そればかりか模倣するものまで出てきかねない。そうなった場合武士としての立場がなくなってしまい、町民から馬鹿にされてしまうだろう。」
“武士は食わずも高楊枝”といった具合に侍というのは自尊心が高い。その自尊心が崩壊した場合、武士としての威厳が保てなくなるのだ。
武士の誇りがなくなった場合、武士はそれまで威張っていた存在から一転して蔑まれる存在になりそこから生まれる格差に苦しみ奈落の底にまで落ちてしまう。
それを裏付ける歴史が現実にある。
(後々の話になるのだが)明治維新設立後の武士は『俺達が今の政府を作ったんだ!』と胸を張っていたのだが政府の官職に就いている者から見れば武士は邪魔者にしか思えなかった。
何故か。武士の戦い方は非常に古く、とても銃火器を使った戦いに於いて太刀打ちできない。
さらに政府予算の約六割を武士の食い扶持に費やしていた事も重大な要因になると言えよう。
武士の命、刀を廃刀令で取り上げ、四民平等で士族(武士)の特権を失い、廃藩置県で藩を潰した。トドメに政府は一時金を支払った後、一切の給料を払わないとした。
無論次々と特権が取り上げられていく中で徐々に新政府に対する不満が蓄積していった。結果、反乱が起きた。
その中でも最大の反乱は木戸孝允・大久保利通と共に“維新三傑”と揶揄された西郷隆盛が首謀者の『西南戦争』である。
およそ10万人の士族が西郷の元に集結して打倒新政府を掲げて進軍したが数・武器共に上回る政府軍に圧倒されて最後に西郷は故郷・薩摩で命果てた、とされている。
ここで(特権を奪われた以上、どうして他の職に就かないのか)と疑問に思う人が多いと思われる。
武士は普段から殿様(藩主)に仕えているのが普通である。藩主に身を捧げ、藩の仕事をこなすのである。
それが廃藩置県によって藩主は東京に移されてしまい、主はいない。さらに仕事も新政府の人間が執り行うのでやることなどない。正に抜け殻な状態である。
ならば別の道に生きる術はなかったのか。
商売を始める者は誇り高き自尊心が仇になって客と対等に商売できない。その為商売に手を出した者は没落していった者が多い。
未開の地、蝦夷(現在の北海道)に渡る士族もいる。しかし極寒の地で暮らしていけるまで相当の苦労が待ち構えていたのである。
もちろん成功した士族もいるのだが極々僅かしかいない。大名の腰元などでさえ遊郭で働くなど没落ぶりは非常に酷い有様であった。
さて、話を戻そう。
「では拙者が参ろう」と永禮が立ち上がると上様は「待て」と制止させた。
「今回の相手は勝手が違う。例えお主が相当な手練れであったとしてもお主が一暴れした場合、お主の活躍は京中に知れ渡ってしまうだろう。それは今後のことを考えると得策とは到底思えない。」
確かに今ここで成敗したとしたならば必ずや敵方から要注意人物としてほんの些細な部分まで細かな視線を浴び続けられる程警戒されるだろう。
今後のことを考えた場合派手な行動は控えるのが筋である。
しかしながらこのまま放っておくのも納得がいかない。武士の面目が丸潰れである。
「なれどこのままでは・・・」
「心配いらぬ。この余自らが直々に成敗してくれるわ。」
「上様!それはなりませぬ!」
この発言に皆揃って猛反発した。
当然だ。どこの世界に国を動かしている者自らが危険を犯してまで犯罪者を成敗する人間がいるのか。いるはずもない。
今の世界で例えるならば総理大臣が銀行強盗を取り押さえるのと一緒なモノである。あまりにも無謀極まりなく、しかも万が一何かあった場合重大な影響が出かねない。
「案ずるな。不届きな輩を懲らしめるだけだ。余が万が一つに負けるなど有り得ない。」
その言葉に迷いがないことは顔に書いてあった。
真っ直ぐ一点を見つめる澄んだ瞳。不安など全くなく、余裕を醸し出している表情。
最早誰が止めようとも止めることが出来ないのである。
「・・・かしこまりました。それでは上様、呉々(くれぐれ)もお怪我のないように。」
そう言うと我々に背中を向けて出掛けていった。



その頃、京の一角にある寂れた廃寺。陽は既に沈んでおり辺りは闇に包まれている。
無論人がいないと思われているのだが仄かに灯りが灯されている。灯りの側には一人の大武者がいた。
姿格好は僧兵で頭には頭巾を被っている。彼は胡座(あぐら)をかいて手を合わせてひたすら念仏を唱えていた。
潰れたと言っても仏の像は存在する。例え略奪目的で夜盗が盗みに侵入したとしても彼らが欲しがる得物の対象になることは有り得ない。
小難しい法典などは薪と一緒に燃やして焚き火の足しにするであろうが、仮に仏像に手を出した場合は自らに仏罰が降り注ぐかもしれない。
例え床板が剥がされようとも、法典が焼かれようとも、金品が奪われたとしても、仏像に手を出すことはないのである。
「・・・参るか。」
念仏を唱え終わると傍らに置いてあった薙刀を手に取り、立ち上がると勢いよく外へ飛び出していった。
石畳の上を彼が履いている下駄で歩くとカランコロンと小気味良い音を奏でた。それがリズムにのって徐々にテンポが速くなっているのがわかる。
秋の涼しい風が京の夜を通り抜ける。その風に後押しされるように大手を振ってどこかに向かっていた。
向かったのは橋の上である。それもかなり人通りが多く、橋幅も広い。
そこに到着するやいなや橋の中央に立ち、誰も通さないと言った事を意志するかのように立ち塞がった。
こういった大通りに面している橋に陣取ることによって目的の人物を特定するのは早くなるということだ。
しかも橋という場所は実に見通しがいい。
京の町は平安の時代に隣国・唐の都を真似て作られている。その為碁盤の目のように大きな道が何本も南北・東西に延びている。さらに都だけあって人々の往来も激しい。
しかも川を渡るには掛かっている橋を渡るか自らの体を濡らして渡るかのどちらか。しかし荷物を持つ者や体力のない者、それに寒い季節などは虚け者でも橋を渡るしかない。
そういった意味で橋に陣取ることは最適なのである。

待つこと数刻。遂に待ち人がやってきた。
相手は二人連れだった侍。雪洞(ぼんぼり)片手に自らの屋敷に戻るのであろう。
侍達が橋に差し掛かったとき、突如僧兵は声をあげた。
「そこのものども。待てぃ。」
両の手を大きく横に張り出して行く手を遮る。その様子に声を荒らげて片方の武士は言葉を返す。
「おい、坊主。我ら何者かわかって口をきいているのだな?」
どうやら声を荒げている方は少し酒が入っているようだ。千鳥足になっていないのだが昂揚して顔が赤い。
だがもう片方の武士は冷静で相棒を宥めようとしている。
「待たれい、権丞(ごんのじょう)。もしや近頃都で恐れられている荒坊主ではあるまいか?」
「黙れ蔵之助(くらのすけ)。このまま引き下がっては武士の面目が立たないではないか。仮に噂の荒坊主を倒したとするならば我らの株が上がるというものよ。」
挑発され酒の勢いも手伝って刀を鞘から抜き放つと橋に陣取る相手に向かって刃先を向けた。
相対して薙刀を構えて臨戦態勢は万態。一線を画すのは間違いない状況である。
「ふっ、大人しく刀を差し出せば怪我せずに済むものを・・・。」
「黙れ。貴様は今宵我が太刀の前に敗れさるのだ。覚悟せぃ。」
その自信の表れか、構えはなかなかのモノであった。並大抵の腕で負かされることはないであろう。
だが冷静な相方から見たこの対決、明らかに此方側の負けだった。
酒が入っているとか扱っている武器の違いとかの問題ではない。覇気からして違っているのである。
生半可な実力ではいとも簡単に跳ね返されてしまうであろう。相手に睨まれるだけで体が麻痺するような感覚に陥るほどの威圧感。
例え二人がかりで向かったとしても勝ち目はないと想像した。いや、出会った時点で運がなかったと諦めなければなかったであろう。
勝負は一瞬で雌雄を決した。
勢いをつけて上段の構えから切り込んでいったが虚しく空を切り、太刀は縦に放物線を描いた。
そして放物線が橋下駄に触れる直前に大きく振りかぶった薙刀の柄が鳩尾(みぞおち)に直撃した。
侍は一回、二回と体を回転させ勢いよく相方の体を通り越して飛ばされていった。
その破壊力は凄まじく、内臓と骨数本が痛み肋骨二本が折られていた。無論意識は既になく、口元からは出血している。
主から無理矢理引き裂かれた刀は僅かな間空中を彷徨った後、虚しく鈍い音を立てて橋の上に落ちた。
その刀を坊主が手に取るともう片方の武士に対して右手を差し出した。
「さて、お主は如何する。敵討ちをするか、それとも倒れている者を担いで逃げるか。逃げるならば腰にさしてある刀を置いて行け。」
これ程圧倒的な大敗を目の前にして戦えるほどの勇気を悲しくも持ち合わせていなかった。悔しいがこの場は逃げるしか道はない。
腰にさしてあった刀を足下へ静かに置いた。『これで私は丸腰だ。我々が立ち去るまで何もするな。』といった現れであろう。
地に臥せている相方を肩に担いで元来た道を何も語らず引き返していった。その瞳からは無数の涙がこぼれていた。
空もそれに呼応するかのように黒く分厚い雲から地面を叩き付けるくらい激しい風雨が彼らを追いたてた―――。
彼らが立ち去って暫く余韻に浸っていたが二振りの太刀を手にすると雷が轟いている空に向かって豪快に雄叫びをあげた。
天に届かせようとしているような大きな雄叫びは激しい雷雨の中ずっと狂ったように叫び続けていた。


その事件から数日。寺子屋の部屋に上様の姿はなかった。替わりに窓の側で碁盤を挟んで坂本と中岡が対峙して将棋を打っていた。
「なぁ、永禮。」中岡が突然口を開いた。
「なんだ。待ったはなしだぞ。」余裕綽々で返事を返しながら次の手を打ちつつも用意していた茶菓子を啄(ついば)む。
「待ったじゃない。上様が心配にならないのか?」負けじとお茶を啜(すす)るが、その表情に余裕は見えない。
心配するのも無理はない。かれこれ四日程宿を出て戻ってきていないのである。
普通なら暢気(のんき)に将棋なんて打っている場合でもないのだが、こうなった以上は無闇に詮索しない方が良いだろう。
なんせ常日頃上様の周辺を守っており、お付きであるお龍ですら何処にいるのか見当も付かないのだ。広い都の中で捜そうなど無謀なのである。
「心配するな。もうそろそろ成敗して戻って来るであろう。」盤上の駒は相手方の王を捉えた。
中岡が挽回の手を画策している合間に坂本は空を眺めた。
数日前の雷雨の影響が残っているのか未だに月に雲がかかっている。そろそろ晩秋なのかも知れない。



静寂な廃寺にあるのは小さな藁(わら)の筵(むしろ)とこれまで奪ってきた刀の山、それに必要最小限の荷物のみ。
広い敷地は荒れ放題なのだがその一角は耕されており、野菜が丁寧に育てられていた。きちんと肥料も与えられているようだ。
小さな蝋燭の灯に照らされて彼は細々と簡素な生活を送っているようだ。
「・・・何奴。」
これまで読んでいたお経の巻物を巻くと外へ向かって歩き出した。
扉を開けるとそこに一人の若い男が立っていた。
浮浪者な身形(みなり)ではない。麻で織られた上下の着物と腰にさしてある刀、それに相手が所持している得物で侍だと識別した。
手にしている得物。それは十字に交錯している白金の長槍。蒔絵などの装飾はされておらず、あくまで実践的である。
そんな大きな武器を所持するなどこの太平な世の中では到底考えられない。ただの見せ掛けならばもっと派手な武器を選ぶだろう。
さらに付け加えて相手の目の色が違っていた。明らかに戦意が此方に向いており、すでに彼との間合いは張り詰めている。
只ならぬ様子に心の底から興奮が湧き上がってきた。薙刀を握る手に力が入る。
(面白い。久しく強い輩と手合わせしていなかったからな。これは楽しくなるぞ。)
横殴りに強い突風が吹いた。体が持っていかれそうになるほどの強い風。
それはこれから起こる壮絶なやり取りを予想していたのかもしれない。
「近頃、京の都で侍を狩っている武僧がいるという噂を聞いていたが、御主か?」
「拙僧じゃないと誰がいるとする。」
「名前は何と言う?」
「拙僧は趨賽(すうさい)。貴殿は?」
「我が名は勝玄舟。暁月流槍術(ぎょうげつりゅうそうじゅつ)の使い手だ。」
相手に自分の武術の流派を教えると言うことは余程のことがない限り絶対に教えないのが筋である。それほど自らの腕に自信があるという現れなのであった。
互いの武器を見てみると持ち手が長い武器である。若干ながら勝の槍の方が刃の部分で長いが大差は殆どないと言ってもいい。
見た目から判断すれば明らかに体格の良い趨斎の方が力押しで勝てるだろう。だがこれまで剣の相手しか相まみえたことがないので経験不足も拭えない。
侍が大体使うのは持ち運びが便利で使い勝手が良い刀が主流。その上剣術を教える道場は町中に幾つかあるが、槍を教える道場などは滅多にないので扱う人が少ない。
しかもその長さから容易に扱いにくく、接近戦では勝ち目がない。だが一歩戦場に足を踏み入れると非常に槍という武器は活躍する。
唯一の攻撃手段“突”は殺傷能力が非常に高く、混戦になった場合にもその威力はいかんなく発揮される。
戦国時代前半に於いては馬上から槍を扱うため、その長さは比較的短かった。
しかし歩兵である足軽が主力となると槍は長くなり、その威力は飛び道具には勝らないが敵陣に切り込むのに必要不可欠な武器になった。
その大胆な方向転換を行ったのが、かの有名な織田信長である。
信長は他にもそれまでの常識を覆すような戦い方をしている。
南蛮渡来の新兵器・鉄砲をいち早く取り入れ、騎馬隊中心で構成された編成を足軽主体にしたり。
その他にも彼はキリスト教を受け入れ、身分に関係なく有能な人材がいるのであれば起用したりとその時代では考えつかないことを多くやってのけてきている。
さて、話を元に戻そう。
辺り一帯は静寂な空気に包まれているのだが、対峙している二人は先程から微動たりしていない。
お互い得物を構えてから息を止めているのかと疑いたくなるほどである。が、当の二人には既に激しいやり取りが始まっていた。
先手で攻めていくか、それとも相手の出方を伺うか―――両者共に痺れをきらして出てくるのを狙っていた。
が、お互い図太い神経の持ち主なのか一向に動く気配がない。
(さて、どうしたらいいのやら・・・。)
やはり一筋縄にはいかない、と趨斎は改めて思った。これまで小物ばかり捕まえてきただけに身体が膠着状態に慣れていないのだ。
実を言うと彼は本格的に体術の教えを受けたことがないのである。
寺の修行の合間に林へと抜け出してこっそりと我流ながら身体を鍛えていただけである。
そのため人と対戦したことは無論ないのである。相手との駆け引きを知らないで一方的な勝ちばかりを得てきたので無理もない。
しかしこの場では彼は未知数の実力者相手に待っている。推測なのだが自らの本能がそうさせたのであろうか。
だが慣れていない独特の張り詰めた空気に押し負けて身体は既に待てないと思った。
彼は電光石火の疾さで勝負をつけようと決心した。全ては先手を逃さずに薙ぎ払う。それしか勝ち目はないと自らに言い聞かせた。
境内の一角にある大きな紅葉の木からひらりひらりと紅葉(もみじ)の葉が強い風に煽られて色鮮やかな渦を作り出した。
その形成されたばかりの渦は二人の間の空間を通り抜けつつある。
「はぁぁっ!!!」趨斎はその渦をけたたましい掛け声と共に縦一直線に薙刀を振り下ろした。
確かに斬った。回転する風と風に乗っていた紅葉の葉を。
趨斎の視界から玄舟の姿を見失ってしまった。先程の渦を破壊した影響もあり、彼の眼前には紅葉が舞っているのだ。
彼が一生懸命に消えた姿の行方を捜していると、空に舞っている紅葉の壁から槍が突き出てきた。
一瞬の不意を突かれた。趨斎の意識が前方に集中しているのを図って横から攻撃した。
玄舟の槍は趨斎の体を捉えた。
が、手応えはなかった。
纏っている衣までは刺さっているのだが貫通していないのだ。つまり致命的な打撃を与えられていないということになる。
趨斎は不敵な笑みを浮かべた。
「残念ながら貴殿の得物では我が鉄壁の堅さを貫けないみたいですな。」
自分の体に当たっている、もとい“触れている”槍を薙刀で払いのけると破れた衣を自らの手で引き剥がした。
その衣の下には黒光りした鎧が隠されていた。身に纏っているその鎧は一見普通のように思えるが実際には想像以上に堅いのである。
勝はじっと趨斎の鎧を見つめてある代物に結論がついた。『黒堅武者鎧“仁王”』と呼ばれるこの世に二つとない逸品である。
作は平義一(たいらよしかず)。陸奥の国にその名を知られている職人で、特に鎧に関しては天才の才能を持ち合わせていた。
右の脇腹に輝く白墨色で“平”と彫りこまれているのはなによりの証拠。義一自らが完成間際に筆を入れる。
主に朱色や濃紺を好んで作ったのだが、晩年は黒色の鎧を丹精込めて作り上げた。
奥州特産で蹈鞴鉄(たたらてつ)特有の黒色を何の細工も施さずにそのまま鎧に仕立て上げたのである。
『仁王』は黒一色ではなく、まるで後世にまで名器と呼ばれるような焼き物のように波打っており見る者を引き込むような錯覚を覚えさせた。
見た目だけでなく実用性にも優れている。精度の高い鉄を用いている上に若干量の薬剤を含んで非常に頑丈な鎧に仕上がっている。
作者である義一自身も「これに勝る代物は過去においても未来であっても存在しない。」と豪語している。
どういう経緯かわからないが趨斎はその逸品を手に入れ、実際に着用しているのである。
「流石天下に名を轟かせる究極の品。易々と貫かせてもらえないな。」撥ね返された槍を手元に戻すと他人事のように呟いた。
胴の部分を覆っている鎧は正しく鉄壁に値する。如何なる攻撃も受け付けない上に鎧に傷一つつけることも困難であろう。
趨斎の目からは勝が勝負を諦めたと判断したが、彼の瞳から闘志は消えておらず、鋭い眼差しを向けていた。
鉾先(ほこさき)は未だに趨斎に向けられている。視線も鋭く今にも彼を貫いてしまいそうな勢いである。
だがあの鉄壁を打ち破らない限り勝機を見出すことは出来ない。腕にも鉄拵え(こしらえ)の籠手が装備されているので攻め手を失わせることも困難。
残念ながら今のところは攻撃を休めて相手の様子を伺うしか手段はなかった。
「どうした。貴殿が参らないならば拙僧から参るぞ。」攻撃を与えられない様子を察知してか立場が逆転した。
趨斎の絶え間ない攻めに対して軽やかな足取りで攻撃を避ける。
実に隙のない攻撃を繰り出してくる。相手に付け入る隙を入れさせることなく次の効果的な一手を放つ。
正に熟練した技で、一介の坊主などはおろか武士ですら普通では出来ない芸当である。
一瞬でも気を緩めれば忽ち(たちまち)この体は真っ二つに引き裂かれてしまうだろう。油断はできない。
と、その時だった。
先日の雨で地面が緩んでいたらしく、勝の軸足がぬかるんだ土に足を滑らしたのである。
攻撃にも守りにも必要不可欠な軸足が足をとられたとなると素早い動作に移るのに若干ながら遅れてしまう。
その若干が猛者達との駆け引きにとって命取りになるのである。
「勝機!」
ここぞとばかりに趨斎は大きく頭の上にまで薙刀を振り上げる。
だが勝もまたその大振りになった僅かな隙を見逃すはずがなかった。
片手で持っていた槍を両手で持ち、その上持ち方もどちらかというと穂先の方を持っている。
縦に大きく振り下ろされた刃先を斬られる刹那でかわし、その反動で長くなっている槍の柄を趨斎の脛(すね)目掛けて思いっきり打ち込んだ。
「ぐぁっ!!!」
脛に鋼鉄の柄が叩き込まれた直後、趨斎はその激痛に耐えかねて悶えながら地面に倒れこんでしまった。
人体致命の急所とまではいかないが激痛から体全体の動きは鈍る。
動きが止められたところで槍を翻して(ひるがえして)彼の喉元に穂先を当てた。少しでも不穏の動きあればその喉元は穂先によって一貫される。
勝負はこれをもって雌雄を決した。
趨斎の喉元に突きつけられていた穂先を引くと趨斎は不敵の笑みを浮かべた。
「ふっ。拙僧のような不届者を処罰しないとは。仏の道に邁進すべき坊主が薙刀を手にして暴れておったのに。」
「生憎拙者は無用の殺生を好まないのでな。それより御主に尋ねたいことがある。」
「なんなりと。」
負けを潔く認め、痛みがひいてきたのか胡坐(あぐら)をかいて座った。但し痺れがあるのか打ち込まれた右脛には手がそえられていた。
「何ゆえ御主は侍ばかり狙うのだ。何か侍に対して恨みを持っていたのか?」
「・・・復讐。この肩の傷に込められし無念と恨みを晴らすために。」
肩に装着されていた肩当を外し鎧を脱ぐとそこには肩口から胸にまで伸びている切り傷が刻み込まれていた。
雷鳴轟き、風は荒れ狂い、雨も疎らに降り始めてきた。廃寺の中へ一旦入ると彼はその切り傷に関する過去を静かに語り始めた





今から十年の月日を遡る。趨斎は数え年で十二歳になっており、それなりに分別のつく年頃である。
彼は京の一角にある寺、つまり今滞在している寺でひたすら仏門に帰依していた。
幼い頃に流行病(はやりやまい)で両親と乳飲み子の弟が亡くなり、身寄りのない状況で住職に拾われて命を救われた。
その当時、親を失った子供は乞食になるか夜盗になるか道端で野垂れ死ぬかしか道がない。拾われることなど滅多にないことである。
住職はまさに自分の子供のように育ててくれ、愛情を注いでくれた。貧しいながら幸せな生活を送っていた。
仏に仕える身であったなら欲を捨てるべきなのである。だが若い時には溢れ出てくる欲望を抑止することが出来ない。
悪友に誘われて住職に内緒でこっそり街に繰り出して魚を捕らえて食べたり、女と会話を交わしたりした。
寺に帰ってくるといつも住職は黙って仏に手を合わせているだけであった。だがそれだけで威圧されているように感じて自分に罪悪感を覚えるのである。
その内悪友からの誘いを断りひたすら仏の道に邁進していくようになった。



だがそんな幸せな日々を無残にぶち壊すような出来事を彼の元を襲った。



山々の木々が赤色や黄色に色付いてきた頃。空の青色と混ざり合って非常に色鮮やかな季節である。
京の都に吹き抜ける風も心地よく感じられ、紅葉狩りにでも出掛けるには格好の日和。
だがそんな風はまた舞い落ちる紅葉や銀杏(いちょう)を片付ける小坊主にとっては憎い仇でもあるのだが。
そんなある日、門前で掻き集めても塵積もる落ち葉を彼が掃除していると侍が寺を訪れた。
「おい小僧。住職はいるか?」
「はい。和尚様ならいつものように念仏をあげていますが。」
なんの変哲もない廃寺なのに何故用事があるのか疑問に思いつつも客間に通してその場を後にした。
数年間この寺に住んでいるのだが見覚えのない顔であった。在家の人々も大抵はこの近くの百姓が多いので毎日のように顔を合わせるので顔をしっかりと覚えている。
彼は直感的にあの侍は招かれざる客だと感じた。だが理性によってその考えを心の奥底に隠してしまった。
話し合いは難航を極めたらしく夕刻にまで及んでいたが、陽が傾きかけるとやむなく侍は引き下がって元来た道を戻っていった。

その夜、彼は住職に今日の話について聞いてみることにした。
膳を前にして一汁一菜の夕餉を食べていると彼は真相を聞きだすために切り出した。
「和尚様。」
黙々と箸を進めていた住職は箸を置いて若い彼の話に耳を傾けようとした。
「どうした。なにかあったのか?」
「本日見知らぬお侍様がお越しになりましたが何用だったのでしょうか?」
「これこれ、大人の世界に口をはさむでない。」
「しかし!」
住職はまるで他人事かのように振る舞い必死に諌めようとする。しかし彼も直感的な不安が治まらず、引き下がろうとしない。
彼の瞳は一点集中して住職の顔に穴を開けるように見つめているのである。
「…お主は頑固に自分の道を貫こうとする。一度決めてしまったら梃子(てこ)でも動くまい。」
その並々ならぬ気迫に押されて遂に住職は根負けしてしまった。
「実はな、とある大名からこの土地を譲れと言われてきていてな。何度も丁重にお断りしているのだが聞き入れてくれなくてのぉ。」
話によると事の発端は十数年前程昔になる。
鷹狩りの帰りにとある大名がこの寺にて泊まることになり、侘びしい寺ながらも精一杯の持てなしを披露した。
だがどういう訳なのかその殿様は殊の外(ことのほか)気に入ってその土地に執着するようになったのである。
この寂れた寺を隠居後の屋敷にでもしようと考えたのであろうか。相手方の考えはわからないが住職は住み着いた土地を離れる気持ちにはならなかった。
だが執拗にこの地を離れるように大金を積んで要求してくる。十年間も粘っている方も住職も互いに頑固である。
「…私もお主に負けないくらいの頑固者だな。とても使い切れないくらいの大金を払うと言われても私の意志は揺らがない。なんとも馬鹿な男じゃ、私は。」
「とんでもございませぬ!和尚様のお人柄はこの地の者に慕われているのはその無欲さがあってからこそと思いまする!」
その言葉を聞くと住職の眼にはキラリと光る涙が浮かんでいた。
大事に大事に我が子のように育ててきた愛弟子の一言でこれまでの苦労が全て報われたような気分になった。
と、山門の方から物音が聞こえたので溢れ出ている涙を拭いつつも立ち上がり、門の方へと向かっていった。
しかし考えてみると妙である。こんな夜分に寺を訪れる門下などいるはずもない。大体夜もそんなに出歩く人など多いはずがない。
住職が扉を開けると昼に来ていた侍が二人の応援を引き連れて立っていた。
「住職さんよ、あんたは本当に頑固だね。」開口一番に侍は住職に罵声を浴びせた。
「いえいえ。私なんて身にあれほどの大金を積まれても困ります、と毎々申し上げているわけではないですか。それだけあるのであれば何処か他の場所でも宜しいじゃないですか。」
宥(なだ)めようとするが相手は殺気立っていた。
こんな押し問答が何回か繰り広げられる内、苛立ちが頂点に達して仕舞いには一人が鞘から刀を抜いて脅しにかかった
「これが最後の頼みだ。黙ってこの大金を受け取って此処から立ち去ってくれ。」
「お断りいたします。」住職は即答した。
その返答を聞くと残りの二人も一斉に鞘から抜いて構える。
住職は何の抵抗をする素振りもなく手を合わせて突っ立っているところを三本の刀が一瞬のうちに体を貫通した。声を荒げることなく、反撃することもなく。
暫くして戻ってこない住職の安否を気遣って後をつけてみると、そこに血に塗れた刀を持っている侍と血塗れになって倒れている住職を見つけた。
我を忘れて素手のまま侍たちに向かっていったが袈裟懸けに斬られてしまった。両者の傷は重く、放っておけば生死にかかわる程であった。
彼は口から血を吐き、朦朧(もうろう)としてきた意識をしっかり持とうと気を持たせたが、力尽き瞼を重く閉じてしまった。


次に彼が瞼を開けたとき、そこは涅槃でも地獄でもなかった。近くの百姓の家の天井が入ってきた。
事情を聞くと彼が意識を失っている間に住職の意識が戻り倒れている彼を見つけると重体な体を押して彼を近くの家にまで運んできたのである。
しかし余命を悟ったのか百姓に彼の今後のことを言伝するように頼むと静かに息を引き取った。
一方彼は近くの百姓や町医者の懸命な看病により一命を取り留めることができたのである。
その事実を聞いて彼は魂が抜けたような表情をして住職の死を悼んだ。その日一日体の水分が全て涙に変わったように涙が枯れることはなかった。
数日後、ようやく落ち着いた彼に百姓は住職から最後の力を振り絞って言伝されたことを話した。
「……和尚様は残されたあなたへ『私のことは一切忘れて平穏な暮らしを送ってほしい』と最後に仰っておりました。」
最後の言葉を聞いた彼にはこの遺言に納得がいかなかった。
一方的に立ち退きを要求して断ってきた結果、何の理由もなく斬られた。そしてこれまで平穏で幸せだった生活が凶刃によってすべて奪われた。
この言伝の意味合いは深くわかっている。『決して敵討ちなど考えるな』ということも含まれているのであろう。
だが彼にとってその裏の理由こそ理不尽である。何故このままみすみす引き下がらなければならないのか。どうして自分の無念を晴らそうとしないのか。
傷が癒えるとお世話になった百姓に心ばかりのお礼をして全国行脚に向かった。住職の供養と武者修行のために――――――。





吹き荒んでいた風も、激しい音を立てて打ち付けていた雨も、空を切り裂いていた雷も、いつの間にかおさまっていた。
雲の切れ間からはぽっかりとまん丸な月が顔を見せていた。
「今思えば敵討ちのための武者修行は非常に過酷なものだった。辛酸を嘗め、苦しみ・痛み・煩悩に耐え、ようやく誰にも負けない力と技を会得した。年月は湯水のように費やしたが……。」
ぼんやりと嵐が去ったあとの庭を眺めて昔に思いを耽(ふけ)っていた。
「…一つ聞きたいが、あの鎧はどのような経緯で手に入れたのだ?あれ程の代物ならば武家の者であれば肌身離すことなく持ち続けるであろうに。」
「あれは通り掛かった質屋にて求めた代物で御座います。」
「なに!?質屋だと!?」
時代の流れは時に残酷である。
戦乱が収まり、太平の世が訪れたこともあり侍は常々戦支度をする必要がなくなった。
そうなると今までそれらのために使われていた金は自然と遊郭や酒などに注ぎ込まれ、質素だった姿格好や装飾なども派手になってくる。
しかし何分金が掛かる。そこで武士の魂と言える刀を残して鎧・兜などを質屋へ流す者共が後を絶たなかった。
酒に溺れ、女に溺れ、そして欲に溺れ。欲望に注ぎ込む金の工面に業物ですら質屋に流れる現状に悲しく思った。
二人は黙って縁側にまで足を進めてそこにどっかりと座り込んだ。縁側は多少雨が入って濡れていたが月明かりが差し込んでいた。
しばらく重苦しい沈黙は続いたが、玄舟が再び語りかけた。
「御主はこれから如何致す?」
「…これまでの罪を償うため、お上に全てを委ねまする。恐らくお侍様に刃向かった重罪で断罪に処せられると存じますが。」
「これは拙者の提案なのだが…。」
不思議そうな表情をして玄舟の声に耳を傾けた。
「実のところ奉行所の者共は御主の存在に気付いておらぬ。正確には『手出しして自らの身に火の粉が降りかかるのを恐れている』のだ。故に所在どころか素性も特定できていない。」
奉行所の裏事情に趨斎はただ黙って頷くしかなかった。
「そこで京の街中にこういう噂を言い触らすのだ。『十年前に斬り捨てられた寺の住職が甦(よみがえ)って侍を懲らしめている』とな。」
この時代、ちょっとした噂が流されるとたちまち民衆に広まり、いつの間にか尾ひれがついて大きくなっていった。
噂は大きく話題になりそうなものであるほど伝達する速さは速まり、尚且つ大きくなりやすい。
そしてなによりも街の民が怯えると自然と混乱を招き、街を大混乱に陥れることも出来るのである。戦国大名も相手方の城下に間者を放って民を混乱させ、その隙を狙って攻め入るという方法を実際に行っていたりする。
「すると張本人の侍共はこの場所へ亡き住職の魂を鎮めに弔いに来るし、御主の存在も奉行方に知られることも格段に少なくなる。『拙僧は亡き住職の魂を鎮めにきた』などと言っておれば怪しまれることもないであろう。」
玄舟が提案した策は下手人の趨斎もこれにはただただ感服するしかなかった。
常人には到底考えつかないような考えを的確かつ素早く判断する頭の回転の速さ。人を惹き付ける雰囲気。なにより相手を思いやる寛大深い心。
この侍…いやこのお方は一体何者なのか?心の中で趨斎は一抹の疑念を感じた。
「…貴方様は一体何処の何方なのでしょうか?是非お聞かせ願いまする。」
玄舟は少し間を置いて改めて口を開いた。
「拙者はただの一介の侍で先刻申したように勝玄舟と申す者。決して高貴な家柄の者ではないのでお気になさらず。」
ふと空を見上げると先程まで厚く雲が覆っていた空が嘘のように晴れ渡って雲一つ見当たらなかった。
今宵は良き月だな、と独り言のように呟くと縁側から降りて草鞋を履くとそのまま後ろを振り返ることなく元来た道を戻っていった。



玄舟が宿に戻る頃には月も頂天から傾きかけていた。無論宿の者は皆床に入っている。
しかし部屋の灯りは灯されたままである。永禮と頑真は寝ずに(退屈しのぎに遊んで)主君を待ち続けているのであろう。
空の暗雲は風に流されていったが自分の心に残る心の靄(もや)が未だに晴れない。
確かに趨斎は罪を犯した。だが根本には傲慢な侍がいたからこそ道を外れてしまったのである。
咎めるべきは趨斎よりも世の闇に潜む害虫だ、と改めて思い直した。
闘い終えた愛槍は月明かりに賞賛されているように一段と白く輝いていたのであった。




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