天狗―――八代五右衛門―――は、地面に突っ伏している男を見下ろしていた。 未だに信じられなかった。何故自分の顔が空気に晒されているのかわからない。確かに男より先に斬った、はずなのに。 しかも男は致命傷、こちらは無傷。だが、敗北感が時が経つにつれてふつふつと湧き上がってくる。勝負に勝ったはずなのに。 先程まで止んでいた風が再び吹き始めた。寒風が顔に当たる。再び面がないことを実感させられた。 何をするでもなく、ただ呆然と見下ろしていた。男は依然として微動だにしない。ただ地面に眠っている。 だが生きているのか、死んでいるのか、はたまた生死の境を彷徨っているのかについてはわからない。ただ人形のように動かない。 止めを刺す訳でもなく介抱するでもなく、ただただ呆然と男を見下ろすしかなかった。 ・ ・ ・ 永禮は深い夢の中にいた。 記憶が朦朧として瞼を閉じた後、何故か頭の中は自分の幼少時代のことが駆け巡っていた。 幼い時分の記憶を辿っていくと、三歳頃の記憶が最も古いように思われる。 その光景は、屋敷の庭で祖父が日差しを浴びて黙々と木刀を振っている姿を縁側から見ているものだった。 祖父は現在では“権現様”と崇められている初代将軍様の直参であり、戦場では常に傍に控えて警護をしていた程の信頼を得ていた。 特に剣の腕前に関しては全国でも数少ない達人の一人であった。将軍家剣術指南役である柳生氏の頭領ですら一目を置いているから、相当な腕前であった。 だが祖父自身は自らの剣術を他人に教えることは一切なく、身内かつ家族にのみ伝えていた。故に全国的には名前が全く知られていなかったが、実力は柳生流を上回ると祖父は自負していた。 父は幼い時より体が弱く、一子相伝の秘剣“風龍真技”を受け継ぐのは不可能に近かった。そのため私に対して過大な期待を寄せていた。 五歳頃から小さな木刀を持たされて素振りをさせられたり、遠泳をさせられたりと無茶苦茶なことばかりであった。五歳にこれ程の厳しい練習をさせるのかと周囲から反発を受けていたほどであったが、祖父は特に気にしていなかった。 見た目から厳つい印象を与える祖父は剣の道においては鬼のように厳しかった。一度教えたことが出来なければ木刀で容赦なく殴られたし、少しでも違う動作をすれば怒号が飛んだ。 しかし七歳を超えた頃から自分でもわかる程急激に成長を始める。一年前よりも一連の動作に隙が少なくなり、機敏な所作を行えるようになったのだ。 同年代の子どもは無論のこと歳が離れている青年相手でも剣術勝負で勝てるようになった。それだけ実力が同世代から比べると抜きん出た存在となっていた。 けれど祖父は全く満足しなかった。勝ったことを喜んで話すと拳骨が降って来て一喝された。 「お前は並の者と一緒ではない、普通の者から得た勝利で喜ぶな」 体が大きくなっていくにつれて祖父から教わる技はより難しく、より過酷な鍛錬を積むようになった。それまでの鍛錬とは比べ物にならない程過酷な内容の鍛錬は日が昇る前から日が沈むまで延々と続いた。 幼い頃は何故自分だけこんな鍛錬をしなければならないのかという疑問を抱くこともあったが、いつの間にかそんなことは思わなくなった。ただ師匠である祖父の技を受け継ぐことに集中して、余計なことを考えなくなったからだ。 ただひたすら祖父の激しい鍛錬の日々を送っていたある日、祖父は突如姿を消した。 家族には京に行くとだけ告げて屋敷を出て行ったきり行方がわからなくなってしまったのだ。何故京都に行くのか、どのような用事があるのか、いつ帰って来るのかといったことは一切言わなかったので、生死の確認も出来ない。 あの祖父が易々と負けるはずがない。そう信じていたが、一向に帰って来る気配はなかった。 幾つか祖父から伝授された秘技と、祖父が課した日課をこなしたが、祖父は帰ってこなかった。旅立つ祖父が最後に残した言葉を胸に秘めて。 「今度帰ってきたらお前さんにとっておきの技を授けてやる。楽しみにしておれ」 そこで再び意識が薄れていく。目の前が真っ暗になっていく中、祖父の言葉だけがはっきりと残っていた。 再び目が覚めても、夢の中のようだった。 一面純白の霧に包まれた平野。所々枯れた薄や雑草があったりしたが、砂利や大小様々な大きさの石が地面を覆っていることから河原に間違いは無い。 自らの手の中には木刀……と呼べるかわからないくらいにボロボロな木の棒。見た目は所々剥げてたり凹んでいたりするが、ずっしりと重い。 周りを見渡そうにも霧のせいで何も見えない。目を凝らしても三尺先も見えない。何がなんだかさっぱりである。 腰の物を確かめたが、ない。一本もない。どこかで落としたのか。 と、その時である。永禮の目の前から尋常ではない殺気が放たれているのに気付いた。背筋をゾクゾクと這い上がってくるあの嫌な感じ。 その刹那、回転した木の棒が霧の中から現れた。手にした棒でそれを防ぐと、弾かれた木の棒は近くの草叢に落ちていった。 草叢に落ちた棒を探ってみると、今自分が持っている物と似たような木刀であった。手荒く扱われてきたのか、こちらもボロボロである。 長さも偶然かほとんど似たような物であった。これは奇遇か必然か。 この霞んだ霧の先に何者かがいる。尋常じゃない殺気がそれを物語る。誰なのかはわからないが。 投げつけられた木刀を左手に持ち、静かに相手の出方を伺う。霧の向こうにある何者かに備えて集中は怠らない。気を抜けば一瞬にして自分の間合いを突き破られる。 ヒュッと霞みの先から短い音が入る。何か投げたと思われるが一向に飛んでこない。 期せずして霧の中の空気が若干動いた。瞬発的に霧の中へと突っ込む。 何者かがいると思われる霧の先を手にしていた棒で一閃したが虚空を裂いただけに過ぎなかった。その直後、自分の背後でドサドサドサッと何かが落ちる音が聞こえた。 ここが河原であることから空から降ってきたのは石であろう。無数の石を一挙に空に打ち上げることで相手の出方を伺ったのだろう。 石に気付かなければ石礫の雨霰に遭い、気付いたとしても空に集中が向いて前が疎かになって隙が生まれる。音の範囲から想像すれば恐らく後退したとしても石礫に巻き込まれたと思われる。 ひとまずは切り抜けた、といったところか。気は抜けないものの、肩の張りが和らいだ。 だが、次の一瞬。 霧の中から突然人が突っ込んできた。その眼は明らかに血走っていて常軌の沙汰を超えている。 口の周りに綿菓子のような白く長い髭を蓄えた老体。まるで夜叉――― 人の次に出てきたのは棒状の物、と判別した時には腿に叩きつけられていた。その動きを目で捉えられなかった。 腿に走る痛みを堪えて視線を外さないように目を向ける。腿を撃った棒は既に霧の中に潜んでしまった。 来る。野生的な直感が電撃のように走る。 微かな霧の動きを見逃さないように凝視し、次の打ち込みを感じ取る。考えていては遅いくらいだ。 第二撃。振り下ろされてきた棒を防ぐ。しなやかに胴を横薙ぎにかかるが、こちらも対応できた。 その後も間髪逃さず打ち込まれる攻撃を両手に持つ木刀で変幻自在に対応。まだ腿に鈍い痛みが残るので若干動きにくいが、腰をどっしり据えることによってブレを抑え、防御に徹することでカバーする。 棒の動きだけでなく、腕の動きも見ることで相手の次を読むことに集中した。動きさえ見切れば相手の技を捌くことが出来る自信があった。 一回、二回と相手の鋭い突きが繰り出されたが、体を捻って避ける。そして腕が伸びきったのを見逃さず右手の棒を一閃させる。 しかし相手も強者らしく腕を素早く畳んで宙を舞うが如く飛んだ。そして、頭を超えて静かに着地した。 互いに棒の先を相手に向けてじっと対峙する。相変わらず霧がかかっていて表情が見えないが、口元は僅かに緩んでいるようであった。 「腕を上げたようだな、永禮」 聞き覚えのある声だった。ここ最近はその声を聞いた覚えがないが、幼い頃にはよく耳にしていた声。老いているが、張りがあって凛々しい男の声色。 あぁ、思い出した。この声は――― 次の瞬間、眼前には木の棒が襲ってきた。目にも留まらぬ速さで振り下ろされたのだろう。 油断した。防御を取る暇も与えられないまま、まともに直撃を喰らい、意識が落ちた。 薄れ行く記憶の中、再び男の声が聞こえた。「まだまだ修行が足らぬな」と。 ・ ・ ・ それが果たして昏睡状態にあるからなのか、死んだからなのかはわからない。 永禮は真っ暗な空間の中にいた。 ふと目を覚ました時、永禮の体は静かに沈みこんでいた。感触としては至極柔らかい。この世のものとは思えないくらいの柔らかさである。 だが、なんだか気持ち悪い。起きないと。永禮の思考回路が再び動き出した。 急いで飛び起きると、その感覚は一瞬の内に消えてしまった。二つの足で地面の上に立った途端に地面は固くなったとでも言うのか。如何せんわからない。 衣服に関しては多少乱れているが、雨露・紫電・なまくらの三本は無事。気を失っている間に追剥・夜盗の類に盗まれたらどうしようかなんて問題では済まない。 不思議なことに、深手を負った傷は塞がっていて痛みも全くない。以前までの傷も治っているような感覚である。 そして血塗れになった衣服も、何事もなかったかのように色がついていなかった。謎である。 謎と言えば、ここは一体どこなのだろうか。皆目見当がつかない。 あの場所であるならば、木々のさえずりも聞こえてくるはずである。少なくともあれだけ木々があったのだから、暗中であったとしても識別できるはずだ。それなのに、双方とも感じられない。 では、一体ここはどこなのか。 わからないままその場で立ち止まっていることも得策かもしれないが、敢えて動くことにした。 動いたことでどう状況が変わるかわからない。動かなかったことによって保たれた命だったかも知れない。動いても何も変わらないかもしれない。だが、全ては天命に任せるしかなかった。 そこで命尽きればそれまでの命と割り切れば良い。どうなっても自分を恨むことも悔やむこともない。 衣服が擦れ合う音。草履が地面を擦っている音。刀が擦れ合う音。自分の呼吸音。 自分が発している音以外は全く聞こえて来ない。本当に摩訶不思議な場所である。 さらに不思議なことと言えば、生物の気配も微塵も感じられないことがある。生物どころか植物も存在しているか疑わしい。奇妙としか言いようがない。 無音で一面闇の中に突然放り込まれることは、非常に過酷な環境下に置かれていることに等しい。 灼熱の太陽が照りつける砂漠の中か、吹雪吹き荒れる極寒の地か、いやそれよりも恐ろしいかも知れない。 人という生き物はどんなに慣れていても一面闇の中では生きられない。忍び寄る不安や恐怖に怯え、負の感情に精神が徐々に侵されていく。 そして精神が耐えられなくなった時こそ……精神が崩壊し、人がヒトでなくなる。 心の傷という内面的な傷は、身体の傷という表面的な傷よりも治りにくく、完治することが極めて低い。深い傷であればその人が生きている限り傷という形で残ってしまう。 しかも現代医学においても軽くすることはできても、完全な治療法は存在しない。薬が存在しても、時間が経過するにつれて薄れるか、逆に悪化させてしまうこともある。 闇に蝕まれた精神を復調させることは並大抵のことではない。それ故に、人間は闇の中では生きられないのである。 永禮自身にとってもそれは同じであった。心の片隅から不安が湧き出してきて、背筋をぞくぞくとさせる。 そんな負の感情を抑える術を持っているからこそ、正常な精神を保ち続けることが出来る。その術というのは、人それぞれやり方は違うので割愛する。 どのくらい時間が経過しているのかわからないが、時間の流れがゆったりしていて苦痛に感じる。苦しい時間というのは時間の経過が遅いが、この遅く感じることでさらに焦燥感が募る。 ……何か聞こえる。黒色に塗りつぶされた世界の奥からそよそよと水が流れる音が微かに聞こえた。 小川が遠くにあるのか、それとももっと小さな水源があるのか。兎にも角にも行ってみることにした。 微かに聞こえてくる音を頼りに導かれるまま歩みを進めた。 こんな何も見えない状態であるにも関わらず、いとも簡単に次の足が出て行く。下がどんな状態なのかもわからないのに。 暗闇の危険とはこのようなこともある。地面がどのような状態なのかわからないことほど、歩く時に不安なことはない。 今まで普通の地面で普通に歩けていたのに、次の足を踏み出すとそこに地面が無くて奈落の底へ急降下ということも考えられる。ゴツゴツとした岩場だと足を捻る危険がある。“一寸先は闇”という諺があるが、正にこのことである。 しかし、そんな不安は微塵も思わなかった。この場所の不思議さはこんなところにもあるのかと永禮は思う。 遠い闇の先から聞こえてくる音は大きいものではなかった。ちょっとした雑音で掻き消えるような、か細く弱い音であった。 そんな小さな音だったとしても、今では非常に頼りがいがある。目印も見えないようなこの世界では、音一つだけでも大体の目安がつく。むしろ命綱なのかも知れない。 何故その方向に行きたいのかはわからない。考えようともしない。ただ、体が動くままに歩いているという感覚しかなかった。 一体どれだけの時間歩いたのかはわからない。少しだったのか、大分歩いたのか、遥か遠くまで歩いてきたのか。 なんとなくではあるが足の感覚が鈍っているように感じる。それに時の流れも普段よりも遅いように思う。感覚の問題だけは可視化できないことなので自分の感覚を信じるしか他はない。 何の気もなしに足を踏み出すと、地面に着地した瞬間に足元から冷たさが昇ってきた。 慌てて踏み出した足を戻して、足を置いた場所に手をそっと置くと、再び冷たい感覚が脳内に伝わってきた。 この感覚……そして足元から溢れてくる音……間違いない、この音に導かれてきたのだ。 濡れた掌を指で確認すると、泥や砂利は混じっていないようだ。闇の中なので視認することが出来ないが純水だと思われる。 永禮は腰を下ろして小川の水をすくって顔をすすいだ。冷たい水が表面の皮膚だけでなく頭の中まで引き締めてくれる。このまま行水をして体全体を洗い流したいくらいである。 濡れた顔を思いっきり振って水気を飛ばし、ふうと大きく息を吐いた。先程と比べて大分頭もスッキリしたような気分である。 「さて」と口に出してみたものの、その先に続く言葉が喉から出ない。 この後続くのは「どこに行こうか」となるはずだが、ここがどこなのかもわからない状態でどこに行くというのもおかしな話である。喉から先に出ないと言うよりも出せないと言った方が正しいかも知れない。 なんともし難い現実であった。当然ながら理解し難い。 大きく息を吸い込む。ひんやりとした空気は肺を満たした後、体の中で温められた空気は再び外界へと送り出される。 深呼吸を数回繰り返し、決意を固めた。 兎に角動こう。 心に決め、一歩を踏み出そうとした、その瞬間であった。 「君は、誰?」 突然背中から聞こえた声。 驚いて振り返ってみると、そこには人の姿が。思わず腰の物に手をかけてしまった程である。 気配すら感じなかった。声をかけられる直前まで生き物がいるような雰囲気など微々と感じてなかった。それどころか物音一つすら立たない世界だったのに。 一体どこから現れたのだ?地から湧いたか?それとも天から下りてきたか? だが、面妖なのはその登場の仕方だけではなかった。 服装もどことなく違和感を感じる。なんだろうか、その不恰好は。 頭は髷を結っておらず、召しているものも変だ。上も下も。天狗や妖怪の類でもこんな格好はしない。 髪は白……いや、銀と表現した方が良いか。肌はまるで雪か真珠のように白い。そして瞳は炎を宿しているか、はたまた血で染められたかの如き紅の色。 常人とは常軌を逸している部分も多く、本当に妖怪か物の怪の類なのかと疑ってしまう。だが、その身から漂わせる気からは、只者ではないことが感じ取れる。 なんだろうか。天狗と初対峙した時ですらここまで心を突き動かされるようなことはなかった。 全てを呑み込んでしまう圧力を感じる時もあれば、全てを受け容れる寛容さを感じることもある。刻一刻と気が変わっているとしか言い様がない。 まるで、今腰に差している“なまくら”のように。 “なまくら”は使い手の意思を上手く汲み取ってくれるのだが、それは刀と人が一体となれる程の呼吸にまではならない。 何物にも靡かないという感じがするのである。使い手を選んでいる訳でもない。だが、その刀は誰にも馴染まない。 自分の呼吸とピタリ合う“雨露”に関しては、見事に一つになれた。この点から考えると、どうも“なまくら”とは充分な意思疎通が出来てない。 波長がまるで“なまくら”と瓜二つなのだ。 しかし、人に違いはない。聞きたいことは山程ある。まずは相手の問いに答えることにした。 「拙者、坂本永禮と申します。して、貴殿は?」 極々自然な話の流れを心がけた。下手に小細工を噛ませると逆に疑われるのは経験から避けた。 が、ここで相手は不思議なことを口にした。 「名前……?ふむ、そういえば名前は決めていませんでしたね」 なんということだ。自分の名前を知らないとは。今までとは違った意味で驚きを隠せなかった。 天上人から下人に至るまで自分を示す名前を持っているのに、まさか持っていないとは。 それが演技ではないことは表情から伺うことが出来た。名前一つにこんなに真剣な顔で悩む人など、名前を持ち合わせていない者以外有り得ないことだろう。 怪しい輩であれば偽名を使って相手を騙すことはあるが、それすらしないということであるならば……元々名前など持っていなかったに違いない。 だが元々名前など持ってない人など存在するのか……?苗字を持つ者は少ないが、名前すら持たない者などいるはずがない。この男、果たして何者なのか。 ここで突然何か思いついたらしく、「らく」と呟いた。 「『ラク』。私のことはラクと呼んで下さい。それよりも君の話が聞きたいな」 とりあえず名前は出来た。だが今度は変な問いである。 話が聞きたいだと……どんな話をしろとある程度決めてもらわないと話す側が困る。好き勝手喋ってくれと言われても逆に困る。 困惑した表情を察してラクの方から助け舟を出してくれた。 「そうだな……君の生い立ちについて話してくれないか。君の記憶の始まりから、話したいことだけでいいから」 範囲を狭めて話の種を作ってくれた。 見ず知らずの人にいきなり話をしてくれと言われて色々と思うことはあるが、今この場にはラクと呼ぶ不可解な人しかいない。 このままだんまりしていても気持ちが詰まるだけなので、相手の思惑に一つ乗っかってみることにした。話していく内に何か手がかりが掴めるかも知れない、という不確かな希望を胸に抱いて。 先程深い夢の中で祖父の面影が浮かんだので、手始めに祖父との思い出を語ることにした。 再び現世に戻り、嵐山の奥深くにある森の中。静寂と闇に包まれた世界に、一筋の光が射し込んできた。 これまで厚い雲の裏に隠れていた月が再び顔を出したのである。今日は月が満ちる日なので、墨をひっくり返した真っ黒な空に真ん丸な月がぽっかりと浮かんでいる。 奇しくも永禮が倒れている箇所は鬱蒼と生い茂っている木々の隙間が空いていて、月の光が永禮の体を照らし出していた。 いつの間にか天狗は木の枝から地面へと降りて永禮の傍らにいた。足元に寝ている永禮は微動だにしない。 今ここでトドメをさせば間違いなく永禮を死に至らせることが出来るが、そんな気は微塵もなかった。 ではどうするべきか。死んでいるのか生きているのかわからない永禮を。 蘇生することは出来る。何千年も生きているので妖術の一つや二つ使えないこともない。全ては天狗である八代五右衛門の思い一つである。 ザザッと木々がざわめいた。月の光を浴びた葉の影がゆらゆらと揺れる中、幾つかの黒い影が闇の中を動いた。 「大天狗様」 木の上から声が聞こえた。影はすぐさま地上へと舞い降りた。 「そこに横たわっている人間は」 その声には人間への侮蔑の感情が篭っていた。妖怪として恐れられ崇められている存在からすれば、人間と肩を並べられるだけでも気分が悪くなるのだろう。 人間と共存する妖怪もいるが、多くは人間を快く思わず害を与える存在。影となっている妖怪もまたその部類なのだろう。 存在すること自体毛嫌いしているらしく、黒い影は闇の中で鋭利で尖った影を作り出した。天狗の手を煩わせることなく自らの手で始末しようという魂胆らしい。 だが天狗はその動きから影の意図を察してやめよと留めた。影は天狗の声に尖っていたものを後ろに戻す。 目の前に跪いている影の様子を見て、天狗は何か感づいたようだった。 「お前達がこんなところにまで姿を出すとは一体何事だ」 「閻魔様が大天狗様に火急の知らせを届けて参りました」 閻魔という言葉を耳にして天狗の表情は一瞬にして険しい表情になった。その眼差しはキッと闇の先を見据えていた。 「至急冥界へ戻るようにとのことでした……如何致しますか」 その人間もどうするか、ということを含めてのことだろう。 妖怪を統べる閻魔からの呼び出しとなれば大急ぎで駆けつけなければならない。その点は影とも認識を共有していた。 だが、倒れている永禮をこのまま放置したら先走った影の者達が勝手に殺してしまいかねない。何しろ人間憎しの感情で固まっている妖なのだからその行動は当然だろう。 「すぐに冥界へ赴く。この者には一切手を出すな」 「しかし奴は人間ですぞ」 なおも食い下がる黒い影に、天狗は鋭い眼光を影に向けた。 「これは命令だ。聞き留めない者はこの場で始末するが……どうする?」 あまりの迫力に押された影は、体中から滲み出ていた殺気を押し留めて天狗に頭を垂れた。 それを確認して天狗はすぐに影と共に闇の奥深くへと消えていった。月光を一身に浴びている永禮をその場に残して……。 |