【どうしようもなく】


 
 最後の投球、となるはずのサインを青山に送る。少しばかり深めに被っていた帽子を上
げて、彼は俄かに自信ありげに首を縦に振った。炎天下の糞暑い中、時折零していた笑顔
がどれだけチームの清涼剤となっていたか、果たして青山は理解していたのだろうか。投
球直前に、グラブを覗き込みながら横顔で笑った。たった今。肩肘張っている俺は、鼻か
ら息を出しながら、それを緩くする。要求は外角低め真っ直ぐ。ストライクとボールの境
界線。キャッチャーミットを一叩き。ドッシリと構えた。
「……うん」
 高いリリースポイントから放たれた力強さに、確信した。思わず小さく唸り、俺はその
まま白球をミットの中に迎えることになる。眼前で打者が力無くバッドを振るう。途端に
マスクを外し、立ち上がる。頭に靄が掛かったように何も、何も考えられなかった。ただ
あと一勝で、僅か一勝で、夢の甲子園に辿り着けるという事実が俺を果敢に攻め立てる。
「お疲れさま」
 汗を拭って、満足そうにマウンドを降りた青山が腑抜けの俺の眼前に立っていた。ワッ
と、他のナインも、ベンチの連中も、沸き上がる。市民球場のスタンドは総立ちで絶叫し
ている。しかし至って俺は冷静そのもの。まだだ。まだ一勝しなくてはいけない。感極ま
って喜び叫ぶのは大いに結構。結構だが、本当の歓喜の瞬間まで我慢しなくては。
「あと、一勝な。一勝」
 声を荒げたいのは山々だが、此処はマスクを抱える手に一層の力を加えることにより、
自分自身を抑え込んだ。低く淡白な声調でウキウキ気分の青山に伝えるも、俺の心情をま
るで知り尽くしているかのように、彼は小さく頷いた。
「分かってる。これでも僕は僕自身を噛み殺してるつもりなんだけどな」
 直射日光に晒し続けた頬に、だらだら流れる汗を青山と俺は押し黙りつつ、ユニフォー
ムの袖で拭う。俺より背の低い大投手は、俺の機嫌とやらを窺うようにチラッ、チラッと
目線を上げる。
「……整列だ。ほれっ、横に並べ」
 顎を使って俺の横に来るように促した。青山は何も言わず俺の横に並んだ。その横から
駆けつけたチームメイトが喜びを体いっぱいで表現しつつ、次々と整列を始める。真正面
には既に泣き崩れている相手チームの顔が並んでいる。無論、真剣勝負の世界がどういっ
た次元なのかは両者共々、重々承知のはずだから、彼らには同情する要素は無い。しかし
彼らの顔を最後まで、勝者として、見届ける義務がある。俺は微塵とたりとも、顔を逸ら
ことは無かった。対面する二チームを見渡すように、審判団も整列した。主審が声を張り
上げる。
「6−0、三栄大付属! 礼っ!!」
「あーっしたぁ!!」
 一斉に帽子を外し、深々と頭を下げる。俺は頭を下げつつ、これから起こるであろう絶
妙な相手チームの反応に期待した。サイレンが鳴り、両チームがまたしても一斉に顔を上
げる。真正面同士、歩み寄り固い握手を結ぶ。俺も泣きじゃくる選手の肩を叩きながら、
どうか俺たちに任せて欲しい、と囁いた。狂ったように頷きながらも、止まない嗚咽に困
惑する。
「……」
 俺が次の一言を言えずにいるのならば、きっと隣は相手側が何も言えずに困っている。
 横を振り向くと、やはり。帽子を脱いだときにお目見えする、青山の白髪に握手の相手
をする選手は吃驚したのか、半ば躊躇していた。はたまた真夏日であるのに、真っ白な髪
の毛からは激烈な冷気が放たれているような錯覚に陥っているのか、相手はただ驚愕して
いる。可笑しい、甚だ可笑しい話だ。青山特有の白髪なぞ、試合中で何度も垣間見ている
であろうに。ましてや、この地域で青山の白髪を知らない野球男児はいない。怪物級のピ
ッチャーとして高校野球の特集番組で取り上げられると伴い、彼の摩訶不思議なそれも、
話題性を求める暴力的なマスメディアの餌食になってしまった。
「おい、お前。こいつが困ってるじゃねぇか。早くしてやれよ」
 抑えた口調で相手を睨んでやる。青山は手を差し出したまま、反応を示さない奴に悲し
そうに、しかし苦笑いを浮かべている。
「あ、あぁ、すまない。本当にすまない。じゃ、決勝も頑張って」
 立ち直り、サバサバとした振る舞いで握手をする。睨む俺にも会釈をし、早々に応援団
の待つスタンドに向かっていった。辛うじて苦笑いを浮かべていた青山は、相手が後ろに
振り返り去っていくのを確認すると、瞬時に憂いに満ちた表情に変える。
「白髪王子なんて言葉、馬鹿らしいと思っているのは僕だけなんかな?」
 俺に喋っているのに、視線なんか揺れまくっていて定まっていない。やがて俯いて、グ
ラブを脇に抱えると、ははははっと無理に笑い飛ばしながら、スタンドへと歩いていく。
 別に今は心情を察して追いかける必要は無いと思ったから、その場で口を尖らせて見送
った。
「ねーねー見た!? 白いよねぇ。マジで白」
「スゲェ。カラーリングでも無理だし。めっちゃナチュラルだし」
 悪意の無い黄色い冷やかしを飛ばす一塁側のスタンドの女子高生。だが青山ファンだと
いうのは分かっている。顔立ちも凛としていて、人当たりの良い態度は人徳そのもの。地
方大会を一戦一戦こなしていくごとに日に日に増殖していくのは明らかであった。だけれ
ど事情を知らない、知ろうともしない、馬鹿で間抜けなミーハー共は青山とそしてチーム
全体の雰囲気さえも蝕んでいくのだ。夏の太陽を背にしている彼女らは逆光で黒く染まっ
ている。それだけが幸いと捉える。舌打ちを一発かまし、まだまだ止まぬ歓声にたじろぎ
ながら、俺も遅れてスタンドへと挨拶に向かった。


「じゃあ、牧野君。学校戻って、ミーティングやったあと、いつものね」
 ベンチに戻った後、早々にスポーツバッグを肩から提げて、いつもの落ち着き払った丁
寧な口調の青山の態度は、まだ切り替えが出来ずにいる俺を存分に焦らせる。タオルを首
に巻きながら、結構気にしてるみたいだなと尋ねても、別に気にしてないよと一蹴。
「僕には、救いがあるからね。何物にも勝る救いがあるんだ。君にもね、牧野君」
 嬉しそうに眼を細めて微笑んでいると、熱気たっぷりの南風がベンチに紛れ込んできた。
 仄かに揺れる完璧な白髪を浮かせるように揺らしていく。曝け出されている白髪を面倒
臭そうにも、大事に押さえ込む。すっかり疲れ切っている足取りは不安定度満点で、支え
てやろうかと駆け寄った。
「別に気にしてない、なんて嘘だろこの野郎」
 棒読みの台詞を織り交ぜながら。
「だ〜〜いじょうぶ。大丈夫! フフフッ……」
 スポーツバッグを掴んだ俺に笑いながら背中で体当たり。小突く程度に。やがて完全に
立ち去った青山を見届けると、俺は自分の支度の為に、まだ空のスポーツバッグを拾い上
げる。グラウンド整備を熱の抜けない思考で眺めていたら、後方のベンチ先の廊下から、
大きな音が聴こえたので、多分彼に間違いないだろう。咄嗟に、転びやがったと悟る。
「やっぱり、嘘じゃねぇか」
 雲の介入を容赦しない残酷なまでの青空を展望しながら、飲みきったスポーツドリンク
の空ボトルを、潰す。







「……改ざんされた書物は多数存在する。歴史上最も古い書籍とされている聖書もその一
つである。聖書の教えでは絶えず祈り続けよとある。神に祈って救いを求めるのではない。
胸の前で手を組み、乞うという行為はどうしても一時的な解脱に過ぎない。絶えず祈り続
けよという理屈は見解からして恥とする教えである」
 決勝戦を見据えながらの長いミーティングが終わり、チームメイトが離散する頃には、
ロッカールームの窓ガラスが紅く反射していた。日差しに照らされての試合後の疲労は図
り知れない。ブレザーに着替える気にもなれず、俺たちは泥のついたユニフォームのまま
で、室内に備えられているプラスチックの青いベンチに腰を下ろしている。青山は所々に
付箋の貼られた黄色い小冊子を開き、俺も同じものを開いていた。
「祈るのではなく、我々が携えるべきは祈らずしての信仰心。絶えず想い続けなさい。群
集の面前でも萎えさせることなく……」
 青山の自由意志なのだ。俺に自由を更迭する権限は無いのだし、ただ……逆に過去の傷
跡で希望だの強い意志だのを忘れた彼に、もしかしたら。もしかしたらこの訳の分からな
い、人の感情を容易く抹殺する冷たい小冊子が、潤いを与えてくれているのかもしれない。

「なぁ……、青山ぁ」

 父親が他の女と蒸発した夜、青山が寝静まっているのを見計らい、母親が無理心中を決
行した。暫くして青山が目を覚ますと、自分に抱きついて離れない母が枕元にいた。

「……ん? あぁ、ごめんね牧野君。ちょっと読むのが速かった? でもここの部分は簡
単だから注解出来ると思うんだ」」

 ストーブの灯油を撒き、引火させてからだいぶ経っていたので辺り一面は火の海で、無
論、青山が寝静まっていた寝室にも火の手が上っていた。

「いや、そうじゃないんだ。そうじゃない。今日さ、お前の母親の」
「分かってる。うん、墓参り。大丈夫だよ。忘れてもないし、嫌だとも思わないよ。そう
だよ。……全然思わないよ。僕の母さんだからね、僕の……僕のだ」

 本人はそりゃ、死にたくはないから急いで部屋の窓を割って、飛び降りてでも逃げたか
った。たとえ、自分の体に母親が纏わりついて、離れようとしなくてもだ。


「アンタ、ウチが楽しくて毎日、仕事に行ってたと思ってんの!?」


 突然、小冊子を閉じると青山は俺の胸倉を強く、引き裂く勢いで掴んでいた。俺は持っ
ていた小冊子をコンクリートの床に落とし、されるがままだ。目尻に涙を浮かべ、顔面を
震わせ、彼は必死に責める。下から上に突き上げる視線は鋭く尖っていて、次第に汗ばむ
額に、あの時の現場を青山自身が再現しようとしている狂気を感じ、俺は怯んだ。
「ねぇ、修ちゃん。死のう? どうせ、アンタなんか、養ってく価値なんてないわよ」
 偏加重でベンチが倒れ、俺たち二人はごろごろと、のた打ち回った。最期、母親が吐い
た言葉を並べ、青山は俺を解放しようとはしない。
「あぁぁ、もう、てめぇぇ! この白髪がぁ!! てめぇ畜生、そんなんだから、母親の
ことばっかで勝手に傷ついてばっかだから、白髪が直らねぇのじゃああああ!!」
「ねぇ、何逃げてるの? 死のう? 死のうよ。ほらっ、ウチなんて首まで切ったんだよ?
ほらっ、母さんが手伝ってあげるから、ね?」
「くそぉぉ! おまけに、おまけによ、変な宗教にまで逃げやがって!! それに付き合
わされてる俺って、俺ってよぉ! 何なんだよ!!!! 答えろよぉ! 修!!」
 ロッカーに頭をぶつけ、唾と一緒に胸の内を吐露したら、青山は今度こそ泣き崩れる。
 正気に戻った青山修なぞお構いなく、怒りに打ち震える俺は修の胸倉を掴み返すと、思
い切り力任せに頬と、腹を殴った。だらしなく、伏した。俺も反動で後ろに倒れた。
「牧野君……ごめん」
 痙攣しながら謝罪する修。白球を投げて、倒れて、殴られて、もうコイツの体は腐っち
まったなんて考えていたら、意外にも呆気無く起き上がろうとする。もう俺は、手を貸そ
うとはしなかった。しようとも、思わなかった。誰のとは知らない凹んだロッカーに、上
半身を凭れさせながら、壁伝いに体を起こす修を傍観している。
「う……ごほっ、げ、ぇ……、ぇぇ」
 胃液をぼたぼた、苦しみながら吐いてしまう度に足を崩して倒れこむ。俺はもみくちゃ
にされていた拍子に切れた口端を拭い、すぐに立ち上がる。修をよそに、倒れたベンチを
起こし、飛んでいった小冊子を拾った。ベンチに座り、修の使い込んでいる小冊子を隣に
置く。
「俺が代わりに続きを朗読してやるよ。お前にとっての、救いを読んでやるよ」
「う……ん。読ん……で」
「なぁ、なぁって。早くこっち来い。想い続けてるんだろ? だったら、そのくらいどう
ってことないだろうが」
 修は諦めて、壁に凭れたまま、真正面にいる俺の方を向いた。笑って笑って笑って、に
こやかに笑っていて、泣いて泣いて泣いて、目を真っ赤に腫らしながらも泣いていて、読
んで読んで読んで、針飛びをしたレコードみたいに何度も読んでと繰り返す。あぁ、壊れ
たのだと後悔した時はすでに遅くて、修は耐え切れず大声張り上げて笑いこけた。
「125ページ、12節」
 ページ数を読み上げたのが限界で、俺は、俺は床に小冊子を叩き付けた。




















 牧野君は優しい人。友人。僕が変なことを言ったらしくて、いや、想い出せないのだけ
ど、怒鳴られて、殴られた。僕は、怖くなって、笑った。そうしたら、牧野君は僕に土下
座して泣いていた。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいと
百回くらい言っていた。僕は、別に良いよと言った。そうしたら、牧野君。お前の気が済
むまで読んでやるからなと言った。何が? と僕は言った。そうしたら、牧野君。




「宗教の小冊子だよ」








 あぁ。







 僕の宗教ね。想い出した。殴られていたショックでよく分からずにいた。母さんが死ん
で、ショックで白髪になってしまったのも、似たようなものである。僕は牧野君に注文す
る。僕が馬鹿になってしまったと勘違いしている彼に、僕は敢えて装うことにした。
「喉が渇いた。アイスが食べたい。買ってきてくれないかな」
「何がいい?」
「バニラアイス。棒付きのがいいね」
 僕は、彼に精一杯の笑顔を送る。






 僕の髪と同じ色だからね。バニラアイス。僕の色だから。






 完全な正気だから言える皮肉に牧野君は顔をしかめていたけれど、黙って頷くと慌てて
ロッカールームを飛び出した。
「明日の初球は、スローカーブ。縦にゆっくりと割れる、得意玉」
 傍に転がっている白球を掴み上げると、自分に言い聞かせるように呟いた。僕が凭れて
いる反対側の壁の上。窓から差し込む夕焼けが僕の自慢の白髪を照っている。穏やかに朱
色に染めてくれることだけが、僕への唯一の救いだった。数分後、馬鹿になってしまった
僕に気遣い、牧野君が馬鹿になってしまったような笑顔を振り撒いて、コンビニの袋を見
せびらかす姿を想像することも、救い。でもきっと底冷えのする救いなのだろう。











 どうしようもないくらいの。









(了)







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