【バンダナ】
「ただいま」
僕の家じゃなく、此処は病室なのだけれど、彼女にとっては住み慣れた真っ白い我が家なので、敢えて言い放つ。何気ない気遣いが彼女を安堵に導けると確信しているから。
今日も僕は、プラスチックの取っ手が付いたドアを横へと引いた。途端に甘ったるい薬品の匂いが、荒々しく自分の鼻を出迎える。
「おかえり、ユウキ」
半分だけ開いているガラス窓からお邪魔する、透明な夏風が卸したての白いカーテンを静かに揺らしているのを背景に、君は優しく目を細めて笑う。今読んでいた芥川の作品集を閉じて、瞳も閉じた。どうやら、感慨無量の様子なので、居心地の良い布団の表面を柔らかく撫でる木漏れ日にも気付かない。
「何を読んでいたの?」
僕は肩からスポーツバッグを下ろし、足元に置くと、プラスチックの床のかちんと響く音が室内に拡がる。
ユニフォームを脱いで、黒いアンダーシャツを纏う姿になると、彼女の横にもう一つだけ点在するベッドの上に寝転がった。二人の間を仕切るものなど何も無くて、四角に区切られた、つまらない白の模様が描かれている天井に向けていた真顔を、ゆっくりと倒したならば、其処にあるのは穏やかな君だった。僕の問いかけに、息を大きく吸い込んで、そして大きく吐き出す。
「久々にね、“トロッコ”を読んだの。何だか主人公の男の子に憧れちゃって」
「うん? そうなの? 僕も読んだことあるけれど、アレって悲しい話としか思えないけどね」
作品集を胸の中に抱く君に、僕は呆気無く反論してしまった。
「ユウキは、そんなに好きじゃないんだ?」
「好きとか嫌いとかじゃなくて、結局、トロッコに乗ったせいで自分自身を苦しめてしまった話だから、何だか切なくて。二度三度も読めないよ」
「でもね、私は後悔しても良いの。しても良いから、私の夢を実現させたい」
半身だけ起こしていた彼女は、満足そうに枕に倒れた。
治療するには鬱陶しいからとの理由だけで、短く揃えている髪に巻かれたバンダナ。その、黄色の星のマークが規律良く複数列にプリントされているバンダナの結び目が小さく跳ね上がった。同時に、お気に入りの芥川の作品集を大事に枕元に置くと、僕の視線に気付いて照れ笑い。
本当は病院が用意している無個性な患者服を着こなす必要があるのだけれど、楽しみがあまり見当たらないから、大好きな水玉模様のパジャマを羽織っている。露出している腕は陽に焼けておらず、粉砂糖を降り掛けられた様に白く輝いている。僕は贅沢にも、そんな彼女の直ぐ横で寝そべっていた。
「君の夢か。僕にも出来そうに無いことを、君はやりたいと思うんだね?」
「トロッコに乗る事より、ずっと大変なんだけれど、やっぱり無理なのかな?」
無理強いて首を傾げながら、傍らの点滴と一緒に苦笑い。僕もつられて苦笑い。でも悲しくて、目を逸らし、スプリングの軋む音と同時にベッドから身を跳ね上がらせる。君の必死な問いには残念ながら即答出来なかったのだ。起毛素材のスリッパに履き替えた足を、ぱたぱたと固い床に擦らせて、言葉に詰まった頭を捻っても、良い文句の一つも浮かばない。
「じゃあさ、ユウキが代わりに、私の願いを叶えて」
足音を止ませる声が、耳を直撃した。
僕の迷いに痺れを切らした訳では無くて、今だとばかりに胸の奥底に詰まっていた悪玉を全部吐き出した様な、ただただ優しい口調で。君は僕と同じでか細く弱々しい体質なのだけれども、それは結局、肉体的な問題に過ぎない。
君の柔らかい笑顔とコトバは、誰もがきっと羨望する。
「僕は、ベーブルースにはなれないんだよ」
少しだけ、寂しい事実ではあるけれども今、君を支えてあげられるのは医者でもベーブルースでも無く、この僕なのだから、思い切って君のベッドの傍らで、ぎこちなく膝立ちをした。
ベーブルースにはなれないんだよと、言い切った自分を憐れむ様に、そして君を慰めるように、目を閉じて、冷たい君の掌を握った。
―――六本木さん、彼女の傍についていて欲しいの。彼女がどんなに辛く、重い病気を患っているのか、貴方、ご存知でしょ? 貴方なら分かってくれるわよね?
いつか話してくれた看護婦の京子さんの台詞が、カーテンレールに吊るされている風鈴の音と一緒に舞い戻る。
「はい、これ」
目を開ければ、僕の掌の中には確かな感触。端が少し床に向かって垂れ下がっている君の大切なバンダナ。いつ何時でも離さなかった其れを、呆気無く手放した君の髪も萎れているなぁと悲壮にも似た寂しさを覚えたのは、僕だけなのだろうか。蝉の抜け殻のように押し黙って、想い出が芯まで染み渡っているバンダナを見つめていた。
「ねぇねぇ、ユウキ。巻いてみてよ」
「うん」
勧められると、いよいよ僕は嬉しくなって緑色の癖毛に素早く巻いた。しかし僕は意味までもしっかり理解した上で、後ろ髪の結び目を固くした。終えると、君の寂しくなった頭を愛しく撫で回す。
「すっごく似合ってるよ、ユウキ」
「僕は、君の願いを叶えられないかもしれないんだ。それでも良いの?」
冷房が効いている病室なのに、首筋から流れる汗は止め処を知らない。其れは、練習が終わったものだから、急いで帰ってきたのも原因の一つなのだけれど、結局は約束を守れる自信なんて無いクセに、容易く君のバンダナを身に付けてしまった僕が恐ろしく、情けなかったから。
非力というネックは彼女も知っていた。まともな長打を飛ばした事なんて、高校に入ってからも縁の無い僕を知っていた。
「うん、いいの。だって、私なんてもう……」
「ヤメロ!!」
きっと、怒号を飛ばした僕の顔は酷いものだろうと後悔した。低く、そして唸っているかのような声を発してしまい、膝立ちから粗雑に立ち上がる。君の台詞の続きなんて絶対に聴きたくないから、無理矢理睨んで、黙らせた。でも僕は嘆く。君の邪気の無い優しさに、自分勝手な態度でしか応えられない。またしてもスリッパを床に滑らせた。驚く訳でも無く、相変わらず君は僕をジッと見上げている。
「優しいね。貴方の優しさは私の希望よ。名前の通りだね」
「僕は優しくなんかない」
皮肉にも、彼女の容態の全てを把握している僕は精神的な艱難を耐えしのいでいた。
それなのに、彼女も悟っている。知っているもの同士、暗黙の了解として受け止めていた。この病室のドアを開ける度に、どんどん体が痩せぎすになっていく君に量産な笑顔しか向けられず、さらに君が病気の核心に触れ出すと、たちまち僕の態度は何でも深く傷付ける刃になってしまう。
このように、僕はことごとく残酷の塊であるという事実を君は知らない筈は無いのに。
「貴方は嫌な顔一つもせずに、寧ろ喜んでバンダナを巻いてくれた。其れがどんな意味なのかも知っている筈なのに」
自分のベッドの布団にふてぶてしく身を投げていた僕の耳に嬉々たる声が入って来た。バンダナにもう一度、掌を宛がわせてみる。気のせいではない。夏の暑さのせいでもない。君のバンダナはとてもとても、温かった。
「ごめん。君の方が優しいね。あっ……」
「えっ?謝る理由になってなくってよ、ユウキ。ユウキ……?ユウキ!」
僕は、ぶるぶると弱く震える指で、枕元のナースコールを押した。今日はいつもより格段と強い波が襲ってきた。寒気もついでに全身を走ったので、布団を被ろうとしたけれど、如何せん、あまりの激痛に体を動かせない。
「あ……あっ、あ」
「私もごめんね。今の私じゃ、貴方を見守ることしか出来ないの」
額から汗が垂れて、バンダナにも染みていた。こんな状況でも笑って僕を励まそうとする君にますます打ちのめされて、苦しく喘ぎながら泣いている。
ごめん。君の方が優しいね。いつも優しい君に負けないように、君の願いを僕の願いにさせてくれ。
……あの続きが言えなくて、でもまだ言おうとしている僕の双眸は真っ直ぐ、君の瞳に向かっている。僕の未熟な気持ちを知ってか知らずか、目尻が潤んでいる君は嬉しそうに微笑んでいるから、無理して僕も真っ直ぐ向けていた双眸を静かに細める。
「……ぁ」
喘いでいた声が枯れるにつれて、窓の外の大木に止まっている蝉の自己主張は、次第に大きいものへと変わっていった。
(了)
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